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  • 最新技術がレオンに集結・10月5日~7日ITM2022開催

    グアナファト州・レオン:10月5日(水)から7日(金)、グアナファト州・レオン市のPOLIFORUM国際展示場でIndustrial Transformation Mexico (ITM) 2022 HANNOVER MESSEが開催されました。 2019年からレオンで行われているITMは今年で4回目の開催。COVID19禍で昨年はハイブリッド形式で行われていましたが、今年はオンサイトでの久しぶりの開催となりました。 オートメーション、ロボティクス、デジタル化技術、ロジスティクス墨の産業トランスフォーメーションなどの最先端テクノロジーがレオンに集うITM。10月5日(水)に行われた開会式では、ディエゴ・シヌエ・グアナファト州知事、アレハンドラ・ギテレス・レオン市長、在レオン日本国総領事館・板垣総領事などが参加し、開幕宣言を行いました。すでに会場は多くの報道陣、出展者、来場者でにぎわっていました。 自動車産業が盛んなグアナファト州に拠点を置く企業も、工場の製造現場で使用する技術をブース内で紹介。 グアナファト州は航空産業も注目されています。 会場内はロボットが大活躍!多くの来場者が一緒に写真撮影をしていました。 ITテクノロジーの分野も出展。読者の皆様にもおなじみのオンライン会議システムのZOOMは会議室予約システムを大画面で紹介。 また今年は日本貿易振興機構(JETRO)により、ITMには初めてジャパン・パビリオンを出展しました。ジャパン・パビリオンのブースには日系企業8社が出展しました。 Canonは高速スキャナーや、外出先でも持ち運びのでき、IDカードなども読み込めるスキャナーを紹介 大阪が本社の阪神ネジ株式会社は、メキシコのマーケットチャンスを知るために自社商品をPR 来年はどんな展示が見られるのか、今から楽しみになってきますね! 参考元URL: 日本貿易振興機構:世界最大級の産業見本市「ハノーバー・メッセ」のスピン・オフ見本市 「Industrial Transformation Mexico 2022」にジャパン・パビリオンを初出展 ―出展日本企業の技術によるメキシコ製造業の課題解決への寄与を期待― https://www.jetro.go.jp/news/releases/2022/36536015837f7929.html

  • 【速報】メキシコ政府、屋内外でのマスク着用義務を撤廃すると発表

    MILENIO誌などによると、メキシコ保健省は屋内外でのマスク着用の義務を撤廃すると発表しました。 これは1.5メートルのソーシャルディスタンスが保たれることが条件で、そうでない場合はマスク着用が推奨されます。ワクチン未接種者は着用が推奨。 リソース元URL:MILENIO Ssa elimina uso de cubrebocas, tapetes y filtros sanitarios - Grupo Milenio

  • 【連載】写真家・篠原誠二の作品を通した日墨交流:第7回「東京」El fotos de Tokio - Seiji Shinohara

    こんにちは。篠原誠二です。今回は日本の首都である東京を取り上げたいと思います。 10月11日から日本への入国が緩和され、より多くの海外の方がまた東京に足を運んでいただけたらと願っています。そんな願いを込めて、私のカメラのレンズ越しに写る東京をご紹介します(※上記の写真は神田付近で撮影したものです)。 まずは浅草。東京スカイツリーと浅草という組み合わせは日本の伝統的な建築と近代的な建築が重なり合う場所が多々あります。 東京駅と、東京駅構内の天井です。読者の方の中には毎日通勤で利用されている方も多いかもしれませんが、天井をよく見ると、相当な工夫が凝らしてあることがわかります。ちょっとした東京駅の拘りを見つけると、毎日利用している駅も少し違う印象を持てるようになるかもしれませんね。 次に皇居の方に足を伸ばしてみましょう。この日皇居の空に現れた雲の形が特徴的でした。 お堀の水面の動きも白黒でははっきりと出ています。 東京タワーも、アングルを変えるだけで印象が大分変りますね。東京の街並みを何十年とみてきたという威厳さえ感じます。 ちょっと路地裏を散歩してみました。日本の居酒屋にまた行きたいな、帰りたいな、という気分になりますね。 いかがでしたか。東京という世界都市は高層ビルに囲まれた都市ではなく、古くからの伝統を共存させている都市であることを私は伝えていけたらと思います。 次回はメキシコに戻りまして、タスコの街並みです。 www.shinohara-seiji.com ※写真の無断転載・商業利用はご遠慮ください。 MEXITOWN 篠原誠二氏のインタビューはこちら (前編)https://www.mexi-town.com//post/seiji_shinohara_1 (後編)https://www.mexi-town.com//post/seiji_shinohara_2 経歴: 篠原 誠二 Seiji Shinohara 北海道生まれ。26歳の時にメキシコに渡墨。メキシコ在住歴46年。 公益社団法人 日本写真協会 会員 COPARMEX グアナファト州 レオン地区 文化担当顧問 CLUB FOTOGRÁFICO DE MEXICO A.C. Fundado1949 国際文化交流理事 (社) 日墨協会 FOTO CLUB AZTECA NIPPON 代表 1995年~1996年日墨協会事務局長 2015年~2016年日墨協会理事 広報出版部長 これまでにメキシコシティ、モンテレイ、レオン、トルーカ、タパチュラで23の写真展を開催。 著書:"移民一世の肖像Retratos de los Inmigrantes Japoneses"(Comunidad Japonesa en México Actualmente Fotógrafo oficial Fuji Film, 2009) "日系二世の肖像 Retratos de la Segunda Generación de Japoneses"(Comunidad Japonesa en México Actualmente Fotógrafo oficial Fuji Film, 2011) "日系三世の肖像 Retratos de la Tercera Generación de Japoneses"(Comunidad Japonesa en México Actualmente Fotógrafo oficial Fuji Film, 2013) "ARROTILLA 日本―メキシコ国際結婚の結実 Los Matrimonios de Japoneses y Mexicanos" (Comunidad Japonesa en México Actualmente Fotógrafo oficial Fuji Film, 2015) “Mi Mexico 俺のメヒコ” (2022)

  • グアナファト日本人学校たより10月号「宿泊学習・学習発表会を行いました!他」

    こんにちは。グアナファト日本人学校より、学校の様子が届きました。 <目次> 安心・安全な学校生活のために 5年生宿泊学習 学習発表会 お問い合わせ先 安心・安全な学校生活のために グアナファト日本人学校では児童生徒の安全のために様々な対策を講じています。本校の児童生徒は、レオン・イラプアト・ケレタロ・セラヤなどから通っており、多くの家庭がスクールバスを利用しています。すべてのバスに警備員が1名同乗します。加えて一部ルートではバスに州警察のパトカーが並走し、道中の安全を守ってくれています。 本校には、委託している警備会社に加え、イラプアト市警察が365日24時間常駐警備しており、在校中も落ち着いて授業や行事等に集中できる環境をつくっています。 校舎の窓には鉄格子があり、すべてのドアは鉄製で内部から施錠できる2重ロックになっています。また、校内外に防犯カメラを設置するなど、不審者等の侵入防止対策を講じています。 日本の学校と同様に、火災、地震、不審者を想定した避難訓練を実施しています。春には不審者が侵入した場合の訓練を実施しました。秋には火災の訓練を行う予定です。 メキシコは日本に比べて治安が悪いと思われがちですが、警察や警備員さんたちに守られて、子どもたちはのびのびと元気に校内を駆け回っています。 5年生宿泊学習 5年生が学校へ一泊。「宿泊学習」を行いました。まずは段ボールハウス作り。各家庭から持ち寄った段ボールを使ってマイハウスを作りました。その後カレー作り、花火、こわい話、きもだめし、キャンドルサービスなど、盛りだくさんの1泊2日を過ごしました。いつも顔を合わせているクラスメイトですが、よりお互いを理解することができました。これからもクラスの仲間、先生とのつながりを深めてほしいと願っています。 学習発表会 全校が4つのグループに分かれました。1・2年生は劇「大きなかぶ~グアナファト日本人学校バージョン~」、3・4年生は群読「祭りだ!わっしょい」、5・6年生は創作・合唱奏「生きる~そのすべてにありがとう~」、そして中学生は「“OverTheRainbow”~メキシコと日本の架け橋になろう~」と題し、一人一人が思いを込め、力を合わせて発表しました。 声を、リズムを、音色を合わせ…子どもたちは先生からのアドバイスを受けながら、一生懸命練習に取り組みました。校内の発表も、保護者の皆様にお見せした発表もともに、その積み重ねの成果をよく発揮してくれました。 グアナファト日本人学校はこんなところ! グアナファト日本人学校「みんなでなろう かけはしに」今井校長先生インタビュー https://www.mexi-town.com/post/escuela_guanajuato お問い合わせ先 グアナファト日本人学校 Instituto Educativo Japonés de Guanajuato, A.C. 所在地:Irapuato,GTO TEL : +52-462-387-1556 E-mail: japaneseschoolgto@gmail.com 執筆者紹介: 温 祥子(Shoko Wen) MEXITOWN編集長兼CEO。メキシコ在住5年半。MEXITOWN立ち上げて今年で3年目に突入。これからも様々なジャンルの方をインタビューしご紹介していきます!趣味は日本食をいかにメキシコで揃えられる食材で作ることができるか考えること。日本人の方が好きそうな場所を探し回ること。

  • 「日系移民が残した功績があるから、日本人がメキシコで尊敬される」平井伸治先生インタビュー

    日本からメキシコに渡った移民。これまであまり語れることが決して多くはなかった日系移民の歴史をモンテレイで研究し、ルーツ探しのサポートをしている日本人がいます。 今回は移民研究が専門のメキシコ社会人類学高等研究所教授・平井伸治先生にお話を伺いました。先生が移民研究をすることになったのは何がきっかけだったのか、そしてメキシコにおける日系移民がブラジルやペルーと比べて何故あまり語られてこなかったなどの理由をお聞きしました。 <目次> 過去の文化より、現在の文化の違いを研究したい 日系移民が残した功績は、メキシコ人からも尊敬されている 自分のアイデンティティの形成にも影響を与える、ルーツ探し メキシコの日系移民が歴史上受けてきたこと 戦前に作られた日本人コミュニティの延長線上にいることを忘れずに日墨交流を行いたい メキシカン・ドリームの実現が出来た自分と先人を重ね、責任ある振る舞いを 編集後記 過去の文化より、現在の文化の違いを研究したい ー平井先生が、メキシコの日本人移民をとりあげることになったきっかけは何だったのでしょうか。先生のこれまでの経歴もお話しください。 平井先生:私は鳥取県米子市で生まれた後、長野県松本市に引っ越し、予備校生の時まで長野県にいました。その後東京に出て、慶応義塾大学・文学部に進学しました。もともと海外旅行に小学校高学年の頃から興味があり、海外で活動するにはどういう職業があるのを考えながら、子供の頃から海外旅行番組を毎週見ていました。そうしているうちに考古学に興味を持つようになりました。異文化を知ることが出来る分野で、かつ考古学が学べる大学と考えたときに、慶応義塾大学が浮かびましたので、受験しました。 大学では考古学と文化人類学を研究する専攻分野を2年生から学ぶことができました。大学に入学して最初の夏休みにメキシコに行き、ピラミッドを10か所以上訪問しましたが、「どうも自分の肌にあわないかもしれない!?過去の人間の文化よりも、現在の文化の違いを見る方が面白いかもしれない」と直感したのが、最初の海外旅行でした。そんな話を同じ専攻分野の友人にしたところ、文化人類学の方が合うんじゃないかといわれ、文化人類学を専攻しました。 その後ラテンアメリカ諸国のどこかでフィールドワークをして、卒業論文を書きたいと考え、長期休暇を利用して旅行しました。コスタリカやメキシコ、グアテマラでの旅行でスペイン語も学び、メキシコ旅行の後アメリカのロサンゼルスに2泊しました。そのころには身に着けたスペイン語を使って、アメリカに移民したメキシコ人と会話ができるようになっていました。そのスペイン語を活かして、アメリカに来た理由をメキシコ人移民に聞く機会があり、アメリカにはメキシコ人の文化が移民を通して構築された地域があるということを肌で感じました。メキシコからアメリカへの移民は、文化人類学ではあまり研究されてない分野だったため、真新しい研究ができると思い、卒業論文のテーマとしました。 その後、1998年にメキシコに留学し、メキシコシティのメトロポリタン自治大学(UAM)で博士号まで取得しました。アメリカに住んでいるメキシコ人移民をテーマとし、異国の地で移民たちが集団でネットワークを築きながら、メキシコ人向けのスーパーを経営したり、村祭りなどを行ったり、家族連れで里帰りする現象はなぜ起こるかを研究の切り口とし、メキシコ人が抱くノスタルジーを研究しました。そうした意味で、当初は、日本人移民とは関係のない研究をしていました。 その後、2009年2月頃にメキシコ社会人類学高等研究所での求人の公募があり、応募したら採用されたので、ヌエボ・レオン州・モンテレイに移りました。モンテレイでは文化人類学の研究はあまり活発ではなく注目されていませんでした。モンテレイには日系企業も多数進出しており、日本人の駐在員がメキシコ社会にどのように適応しいくのかを研究するには、日本人であって日本語が話せる私が適しているのではと思ったのが、メキシコに暮らす日本人を研究する始まりです。 日系移民が残した功績は、メキシコ人からも尊敬されている ーこうしてメキシコの日系移民の研究をスタートされた平井先生ですが、モンテレイにも日系移民が多く住んでいて、ルーツを知りたいという方にルーツ探しのお手伝いをはじめました。 平井先生:モンテレイで東北部日墨協会の会長も務めていますが、こちらの日系社会では、日系2世や3世でも日系1世の父や祖父のことをあまりよく知らない、日本語を話す先祖のことがずっと謎だったという意見が多いのです。また、日系2世・3世はメキシコ人の同世代と比べてかなり高学歴で規律正しく・よく働き・嘘をつかない、職業も公認会計士や医師など優秀な方で、信頼できる日系人として各地で高く評価されている印象があります。 また、メキシコ北部には太平洋戦争前まではたくさんの日本人が移住した地域があり、例えば、ヌエボ・レオン州、コアウイラ州やタマウリパス州では、かき氷のことを”YUKI"と呼んでいて、モンテレイ市内でも日本人がかき氷を売ってた時期があります。どうやら日本でも戦前、かき氷に砂糖をかけたものをYUKIと呼んでいた地域があり、そこから来ているのではないかと観られています。メキシコ国内には、メキシコ人に親近感を持ってもらえるような日本人移民が残した多くの功績があり、メキシコ社会において日系移民はマイノリティだけれど、メキシコ社会に貢献されてきたので、日系人はメキシコ人から高貴の一面も持たれています。 写真左:1934年モンテレイ天皇誕生日式典 写真右:1930年代モンテレイ結婚式 日本のアニメ・マンガ・ゲームなどのサブカルチェアーはご存じの通りメキシコで大変評価されていますが、「自分のルーツは日本にあることをもっと知りたい」という日系人の方が多くいることに気付きました。私自身だけが研究するのではなく、ルーツ探しに役立つ調査方法などを日系人に伝授して、ルーツ探しを共同で行うことを2015年に開始しました。その後東北部日墨協会にも協力いただき、コミュニティ参加型のプロジェクトとして活動しています。 例えば、日系5世の方で、1世が沖縄出身の若者の話です。大学で教育学を専攻をしており、卒業論文のテーマを「日系人がいかにメキシコ社会に統合されたのか」として、教育の観点から調べてました。この若者は、2019年に沖縄でフィールドワークを行った際に、日本の親戚と面会することができました。また、「日本に旅行に行きたい、ただ旅行するだけではなく、1世の生まれた場所を訪れてみたい行って」という日系3世と4世の親子の要望があった際は、現地での活動を遠隔でコーディネートし、1世の戸籍謄本のコピーを入手したこともありました。 日系5世の方が、沖縄まで行き、ご自身の先祖のお墓参りをされました。 自分のアイデンティティの形成にも影響を与えるルーツ探し ールーツ探しはただ資料を集めて終わりではないと思います。どのようにルーツ探しをするようにアドバイスされていますか。 平井先生:まず、日本人移民史の概要について講座を開き、参加した人が課題をやりながら本格的な調査の準備をします。第2段階では、自分のできる範囲で調査を進めます。また、研修活動の際に家族史を作成することを指導しています。1世のライフヒストリーを分かり易くするためにタイムラインを作成することにより、1世についてこれまで聞いてきた情報を整理することができます。そうすると、例えば祖父の1907年から1917年まで情報がない、といったことなどが分かったりするので、分かっていることと、分かっていないことも整理でき、分からないことを見つけるにはどういう資料があるのか調べていきます。家族史は調査をする上での不明点を分かるようにするツールです。 また、オーラルヒストリー(口述歴史)を聞くだけでなく、各家庭で資料が眠っていたら、どのように保管するかなども指導しています。中には1世の日露戦争の軍の手帳といった貴重な資料まで出てきたことがあります。そうした貴重な資料は、原本は湿気のあるところに保管しない、写真はデジタル化して保存する、親戚同士でデジタル資料を共有化し、家族内でトラブルがあっても1世の情報は共有するべきだと指導しています。自分たちで抱えておくだけではなく、誰かに情報提供をするように助言したりもしています。 日系移民の中には、日本で戦争に参加した若者や、当初ベラクルス州のさとうきびプランテーションでの仕事でメキシコに来てたが、その後、病気で亡くなったり、職場から脱走する人も多くいました。無一文になってメキシコで放浪した後に、別の仕事に就き、結婚し家族を養えるようになったり、中にはソノラ州で氷・炭酸飲料製造会社の経営者になった人もいました。こうした1世のライフヒストリーの詳細な情報は、日系人のアイデンティティの構築に役立ち、特に日系4世・5世などの若い世代にとっては思春期におけるアイデンティティの形成のための貴重な情報と言えます。日本で1世の故郷を訪れることも、自分の先祖がとある地域から、これまでの足跡を追うことで、アイデンティティの構築の豊かにするものだと思っています。 こうしてルーツ探しもだいぶ進むとと、日本に行かないと目標が達成できないケースも増え、また当初モンテレイやメキシコ北部を中心に行ってきた活動を他の地域でも行いたいという声があり、トヨタ財団の研究助成金を申請しました。日本では社会科学・人文研究の助成プログラムでは取得が一番難しいものの一つと言われていましたが、2018年に無事審査が通ったことで一気に活動の幅が広がりました。 新型コロナウイルスのパンデミックの最中でもオンライン集中講座を開講し、2020年8月に開始した第一期目のオンライン講座には約120人が参加しました。北はバハ・カリフォルニア州、南はチアパス州、中にはメキシコ国外からの参加で、スペインやイギリス、アメリカに住んでいる日系人の方もいて、大好評でした。 トヨタ財団の助成が終了し、2022年3月までJICA(国際協力機構)の助成金を頂いて活動を続けました。日系移民ではないけれど、日本人移民史に関心のある研究者や大学生・大学院生にもオンライン講座を開放しました。この意図は日本人移民史に関する研究活動をフルタイムでしている方々を ルーツ探しをする日系人の協力者として講座を通じて育成するためでした。 今年の夏にモンテレイで行われた七夕まつりでは、グループ発表を行い、ルーツ探しをした日系人に自らの体験談を発表してもらいました。人の語りというものは、非常に強い力を持っていると思います。情報として面白いというだけでなく、話している本人の感情の起伏や個人の想いを聞いている人達が感じ取ってくれます。こうした語りは日系人でなくても共感を得てもらえると思います。 ルーツ探しのプロジェクトからの派生で作られた短編ドキュメンタリー映画 トヨタ財団の助成金をいただき、プロジェクトの大きな業績として、日系人同士のネットワークが強化されたことと、参加者の意識が変わったことを肌で感じました。コミュニティのために奉仕できる活動を運営していかなければならない、資金が低額でもできる活動を多くの人に共有してもらい、ルーツ探しを行いながら、日本とのつながりを日系人自身がが今出来る範囲で構築してほしいと引き続き思っています。 また、これからの課題として、日系人コミュニティのリーダーの育成が挙げられます。リーダーの育成という課題は各地域の日系人コミュニティからも声があがっており、こうしたルーツ探しを継続させること以外でも、例えば日本文化や日本との絆の継承という観点からも重要と言えます。 2019年在日本メキシコ大使館で研究成果を発表する日系2世 メキシコの日系移民の特殊性 ー日本で日系移民というとブラジルやペルーの日系人が取り上げられることが多く、メキシコの日系移民はどちらかというと平井先生の研究で広まった印象があります。移民した規模の違いもあるかと思いますが、何故メキシコの日系移民がそこまで注目されることがなかったのでしょうか。 平井先生:メキシコにおける日本人移民史の中でいくつかのターニングポイントとなった出来事に分けてお話しします。 移民事業として初の榎本殖民団の来墨 おっしゃる通り、ブラジルやペルーの日系人と比較すると数が圧倒的に違います。ただ、ラテンアメリカ諸国における移民事業としての日本人移民はメキシコが最初です。この1897年の榎本移民団の後、1899年からペルーの日本人移民が開始されます。その後、メキシコには1901年から1907年の間で1万人以上の日本人が契約移民として送り込まれました。その多くは日本でも農村の貧しい地域出身者で、和歌山県、富山県、広島県、福岡県、熊本県、沖縄県などの出身者が目立ちました。 その後、仮にペルーのように10年ほど移民会社を通じて多くの日本人が移住していたら、メキシコの移民は劇的に増えていたでしょう。しかし、何故それが起こらなかったのか。それを理解するにはアメリカ・日本・メキシコを含む地政学を考えなくてはなりません。 日米紳士協定の締結 1907年頃は日本が明治期に入り軍事力も経済力・産業も発展し、ある程度富国強兵という目標を実現できた時代です。日露戦争でロシアに勝利したことは、海外での日本人と日本に対するイメージを大きく変えました。1905年以降、アメリカで日本人の排斥運動が激化し、日本に対して警戒心が高まりました。 メキシコに住んでいる日本人は移民労働者ではなく、夜間軍事訓練をしているという噂を在墨アメリカ大使館にアメリカ市民が通達したり、また20世紀初頭に当時のドイツのプロイセン王国では、日本とメキシコが同盟を結びアメリカに侵攻する可能性があると外交官が皇帝に報告するなど、政府レベルでもメキシコの日本人が警戒されました(もちろん、これらの噂は事実に基づくものではなく、空想の産物にすぎませんでしたが)。 1907年に日米紳士協定が締結し、アメリカに労働目的の日本人を送らない、労働目的でアメリカ・ハワイ・メキシコに行く日本人に対してパスポートを発行しない、アメリカは国内にいる日本人を排斥しないという合意が成立しました。この結果、日本からの移民会社を通じた大規模な契約移民という事業はメキシコでは終了し、その後1920年代から1940年代まで日系移民は、すでにメキシコに来ていた日本人が親戚・兄弟・妻をが呼び寄せる形で継続しました。 第二次世界大戦ー日系移民の強制移住 その後太平洋戦争が開戦になり、アメリカ政府はメキシコ政府に対してブラックリストに載っている日本人の送還を求めましたが、日墨関係が歴史的に友好であったこと、また日系移民は各地で評判が良く、エリート階層とつながっていたこともあり、メキシコの主権を守る意味でも国内にいる日本人はメキシコに残してメキシコ政府が管理することになりました。その政策として、アメリカとの国境沿いに住んでいる日系移民をメキシコシティやハリスコ州などの内陸に移住させたり、日本人・イタリア人・ドイツ人に対する財産凍結、日本人同士の集会禁止、帰化申請の無効をなどの処置がとられました。マスメディアでも日本人に対する悪口も書かれ、それまで親日国であったメキシコで、一気に社会が反日になったことが、日系1世・2世が日本や日本文化のことを、戦後あまり語らなくなったことに繋がっていったと考えます。 戦後の日系社会:日本文化を語られずに1世が去る 地方に住んでいた日本人男性が戦時中メキシコシティやグアダラハラに強制移住させられ、残された家族は一家の大黒柱の男性を失い、各家庭が経済困難に直面しました。これが、メキシコ各地で形成された日本人コミュニティに大打撃を与えたと要因と言えるるでしょう。そして敗戦後、強制移住が解除されても元々の居住地に戻らない日本人が多くいたため、例えばバハ・カリフォルニア州のメヒカリなどでは日本人会などの活動も下火になりました。コミュニティのメンバーも高齢になり、子供や孫たちに自らの体験をあまり語らずに1世が亡くなっていったのが、メキシコの日系社会の特徴と言えます。 日系1世について、その次の世代が何も知らないことに、こうした特殊な歴史的背景があることを理解していただきたいです。また、母方がメキシコ人の場合は、家庭で父親ある日本人の文化が充分に引き継がれなかったという仮説を立てることもできます。しかし、「日本という国は日系1世にとって大切なものだったけれど、自分たちの世代で日本とのつながりは終わらせよう」という意図があったのではないかという解釈もあります。「子供たちや孫たちがより早くメキシコ社会に溶け込み、差別されないように」という1世の次の世代に対する愛情の反映だったのではないか、といった解釈も可能であり、ルーツ探しをする日系人には各家庭で戦時中・戦後の歴史解釈を個別にやってもらいたいと思っています。 2019年コアウイラ州ラス・エスペランサス村の日系人交流会 戦前に作られた日本人コミュニティの延長線上にいることを忘れずに日墨交流を行いたい ーメキシコの日系移民がブラジルやペルーの日系移民とは大きく違うことが、今のお話しを通してよく理解できました。現代はメキシコも親日で、もっと日本と繋がりたいという動きが強いですね。 平井先生:メキシコは親日の国で、戦時中の日系1世ができなかったことを伸び伸びとできる世の中になりました。私自身東北部日墨協会という日系人団体の会長を現在務めさせていただいておりますが、戦前に作られた日本人コミュニティの延長線上にあるという意識を持って活動をするようにしています。戦時中や戦後も暫くできなかった日墨交流を今は伸び伸びと行い、日本とのつながりを修復しさらに強化していきたいです。 戦時中に日本人移民が経験されたことや先人の当時の気持ちを想像すると、同じ日本人として悔やまれます。私達以上に祖国や故郷に対する愛着が強く、故郷のお墓に葬ってもらいたいといった願いなどもあったと思います。でも現実を見るとメキシコでは子供たちは育ち、孫もいて、、、自分の祖国に対する気持ちとは別に、自分の子供たちや孫たちの安全・生活・将来のことを考えると、メキシコでの生活を優先しなくてはならなかった1世のジレンマを、是非日本人の読者の方には想像してもらいたいです。 メキシコがいまだに親日なのは、アニメ・ゲーム・漫画などのサブカルチャーや日系企業の世界的な進出という要因もありますが、メキシコに戦前に渡った日本人の貢献が非常に大きいことも忘れないでいただきたいです。各地域で誠実でよく働き、メキシコ人と鉱山で働いたり、生活面でもいろいろ協力していた日本人。メキシコ社会に多大な貢献をしてきた日本人が、戦時中いきなり日本と日本人のイメージが変わっても、戦後大変な苦労と努力をされてメキシコの各地で日墨友好の回復・再構築をしました。これまでの先人の努力を考えると、微力ながら自分も日本人のイメージをよくするために努力しなくてはならないと思っています。 メキシカン・ドリームの実現が出来た自分と先人を重ね、責任ある振る舞いを ー今回はメキシコの日系移民について、非常に貴重なお話が聞くことが出来ました。最後に、読者の方へのメッセージをお願いします。 平井先生:私自身、メキシコに来る前は普通の学生だと思っていましたが、メキシコで鍛え上げられて、(とりあえず人類学者になりたいという20代の)自分の夢は達成できました。メキシコに渡りメキシカン・ドリームでメキシコに人生をかけてみた先人たちと自分自身が重なっていると実感しています。しかし、戦前に渡墨した日本人は、私が経験した以上に大きな文化の違いを経験され、より厳しい時代を生き抜かれ、感銘を受けます。日本の貧しい農家出身だった方々がが無一文になったときもあるけれど、結果として家庭も築き、いろんな分野で成功された方々もいました。日系人と共にルーツ探しをしながら、先人の生き様から今後もいろいろ学びたいと思っております。 読者の方で、駐在員の方へ。メキシコ人の上に立つ立場として、メキシコ人の生活やキャリアにも大きく左右し、影響力のある立場にいます。ここでないとできない仕事であるとポジティブに考え、今の環境・人間関係を大切にしてほしいです。 今、私達が差別されない理由には、戦前にメキシコに移住した1世やその子孫である日系人の方々が、戦後多大な努力をなされメキシコ社会で日本と日本人に対するイメージを修復し、信頼を回復してきた現実があります。そのため、125年前から続くメキシコにおける日本人移民の長い歴史の中では、最近渡墨した日本人の多くは、私も含め、メキシコ人と接する際に責任のある振る舞いをしなくてはいけないと常々思っております。 自分のせいでメキシコ人にとっての日本と日本人のイメージを悪くしないように、先人から学びながら、メキシコ人に敬意を表されるような振る舞いを心掛けていきたいです。日本とメキシコの関係は、草の根的なレベルで、いくらでも良くも悪くもできるのですから。 メキシコの日系移民について、もっと知りたい方に RAICES EN JAPON-MEXICO バーチャルミュージーアム https://www.raices-jpmx.com/ Youtubeチャンネル https://www.youtube.com/channel/UCx8Ope4JPMojiPhDsDyV3Vw/videos 経歴: 平井伸治 Shinji Hirai 1998年よりメキシコに在住する人類学者。2007年メトロポリタン自治大学(UAM)人類学部にて博士号取得。在米メキシコ人のノスタルジーに関する博士論文が、2010年にメキシコ科学アカデミーより社会科学部門最優秀博士論文として表彰される。2009年よりメキシコ国家科学技術審議会(CONACYT)所管の社会人類学高等研究所の東北キャンパス(モンテレイ市)に勤務。2015年から2019年まで同キャンパス所長を務める。専門は移民研究、感情人類学。 メキシコ人移民とノスタルジーに関する著書にEconomía política de la nostalgia. Un estudio sobre la transformación del paisaje urbano en la migración transnacional entre México y Estados Unidos (UAM-I/Juan Pablos Editor, 2009)、論文に"Les nostalgies dans la ville contemporaine: pistes de recherche" Cybergeo: European Journal of Geography, 904 (共著・2019)、"The Role of Mexican Immigrants in the United States on the Imagined and Invented Traditions in Mexico’s Regional Cities" Hispanic Journal of Behavioral Sciences, Vol. 41(2) (共著・2019) などがある 経歴出所元: https://www.rikkyo.ac.jp/events/2021/03/mknpps000001itsd.html 編集後記 インタビュー記事の中でも触れたとおり、多くの方が日系移民というと最初に浮かべるのがブラジルとペルーです。日本のメディアでもドラマや映画で取り上げられているからもありますが、それほどメキシコの日系移民については語られる機会が少ないテーマです。しかし、メキシコにも日本人の苗字を持つメキシコ人が多く、国際結婚された方も大勢いらっしゃいます。そんな方々を大切にしていかなくてはならないはずなのに、何故日系2世以降に日本文化が伝承されてこなかったのか。平井先生がわかりやすくお話しいただいたことで、その深い理由が理解出来ました。 第二次世界大戦中に反日になったメキシコが、現在他国と比べても親日国家になったのは平井先生のおっしゃるとおり、日系1世の方々の苦労・誠実さ・真面目さがメキシコ人に評価された背景があったからだと実感しました。そうした日本人としての大先輩の方々の苦労をしっかりと理解し、恥ずかしくない行動をとらなくてはいけないです。そしてそうした振る舞いを次世代に伝えていくことが、私達の使命でもあります。 執筆者紹介: 温 祥子(Shoko Wen) MEXITOWN編集長兼CEO。メキシコ在住5年半。MEXITOWN立ち上げて今年で3年目に突入。これからも様々なジャンルの方をインタビューしご紹介していきます!趣味は日本食をいかにメキシコで揃えられる食材で作ることができるか考えること。日本人の方が好きそうな場所を探し回ること。

  • 【イラプアトお知らせ】Restaurant Ken 憲 10月2週目 日替わりメニューの御案内

    イラプアトのRestaurant Kenより、日替わりメニューのお知らせです。 (※画像は定番メニュー!ねぎとろ丼です) 塩鯖弁当 $130 継続します。 日替わりメニューについて 10/10 月曜日  酢豚 Subuta 10/11  火曜日  海老味噌カツ丼 タルタルソースがけ Ebi miso katsudon con salsa tartaru 10/12 水曜日  麻婆茄子 Mabo nasu 10/13 木曜日  豚バラ卵とじ丼 Butabara tamagotoji don 10/14 金曜日  とり天丼 Tori tendon ※お弁当メニューはこちらからダウンロードできます↓ お弁当のご注文はこちらのメールにて、 当日9時までに頂きますようにお願いします。 尚、KEN弁当に関しましては予算や内容などの確認もありますので、 3日前までにご注文頂きますようお願いします。 宜しくお願い致します。 Restaurant Ken のインタビュー記事はこちら https://www.mexi-town.com/post/restaurant_ken 店舗情報 Restaurant Ken 憲 住所:Irapuato - Silao 250, 36810 Lo de Juárez, Gto. MAP 電話番号:462 117 4908 営業時間:月~土: 12–3PM 定休日:日曜日 ※夜の時間帯は4名以上の予約制となります。

  • 【イラプアトお知らせ】死者の日だョ!全員集合 グアナファト日本人学校 仮装パーティー!~ケツァルコアトル大学共同開催~

    グアナファト日本人学校より、死者の日のイベントのお知らせです。 11月1日、2日はメキシコ死者の日です。今年も、そんな死者の日の時期が近づいてきました。 イラプアトにあるグアナファト日本人学校では、今年はケツァルコアトル大学との共同開催にて、死者の日イベント開催いたします! 民芸品の販売、無料カトリーナメイク、「ダンテ」との写真撮影、その他メキシコを感じるサプライズ等、てんこ盛りの死者の日イベントとなっておりますので、この機会にぜひ、ご家族やご友人をお誘いの上ご参加いかがでしょうか。 なお、仮装で来られた先着50名様には嬉しいプレゼントも・・・!? 「死者の日だョ!全員集合 グアナファト日本人学校仮装パーティー!」 日程 : 2022年10月29日(土)11時~16時半 場所 : グアナファト日本人学校 体育館、ピロティー 参加費 : 無料 内容 : 死者の日オフレンダ(祭壇)展示 「自分だけのアレブリへを作ろう!」 *日本人学校在校生限定 仮装を完成させよう!無料カトリーナメイク メキシコ雑貨販売 ディズニー映画「ココ」上映(日本語音声) メキシコを感じるスペシャルパフォーマンス 本物の「ダンテ」と写真撮影!? *各イベントの開催時間に関しましては、ポスターをご参照ください。 グアナファト日本人学校はこんなところ! グアナファト日本人学校「みんなでなろう かけはしに」今井校長先生インタビュー https://www.mexi-town.com/post/escuela_guanajuato お問い合わせ先 グアナファト日本人学校 Instituto Educativo Japonés de Guanajuato, A.C. 所在地:Irapuato,GTO TEL : +52-462-387-1556 E-mail: japaneseschoolgto@gmail.com 執筆者紹介: 温 祥子(Shoko Wen) MEXITOWN編集長兼CEO。メキシコ在住5年半。MEXITOWN立ち上げて今年で3年目に突入。これからも様々なジャンルの方をインタビューしご紹介していきます!趣味は日本食をいかにメキシコで揃えられる食材で作ることができるか考えること。日本人の方が好きそうな場所を探し回ること。

  • 安心・安全の送迎サービス、Kurumatravelのご紹介

    「レオンとメキシコシティ、その後どこか観光もしたいけれど、自分の都合に合わせて回ってくれるツアーがあったらな」 「目的地から空港までがとっても離れている。しかも道中の治安が不安・・・」 「英語の通じる、信頼できる送迎サービスがほしい」 そんなお悩みを持つ方に、Kuruma Travelをご紹介します。 Kuruma Travel EXECUTIVEとは? 日本での経験が豊富なミュージシャンのJavier Regalado氏が立ち上げた、エクゼクティブの日本人の方に安心してご利用いただける、メキシコ国内・送迎サービス、観光ツアーを提供する会社です。 今回、MEXITOWNがホームページのリニューアルを手掛け、新たに日本語のページも設けました。プライベートジェットサービスなどもありますので、詳細は是非以下のウェブサイトをチェックしてください。 送迎サービス | Kurumatravel | Ciudad De México (kurumatravel-executive.com) Javier Regalado氏を推薦する、JIGYOU SUPPORT STRATEGY 代表の滝本昇氏よりメッセージ ”Javier Regalado氏は20年来の友人で、時間をきちんと守る人物で、周りの友人から評判も良いです。” 実際に利用したCDMX在住S・S様の声 "Javierさんのサービスを利用しました。最初から最後まで非常に丁寧に対応してくださり、とっても満足しています。リーズナブルなコストも大変魅力で、安心してお任せできます。" 実際に送迎サービスで利用する専用のジェット機の映像 各企業様で送迎サービスをご検討されている方は、是非Javierさんにご連絡ください!(英語対応可) お問い合わせ先 Kuruma Travel EXECUTIVE Dirección: La Purísima Ticomán, CDMX TEL: 5566466444 travel_executive@outlook.com MEXITOWNでは、ホームページ作成も承っております。日本語でのサポートにより、お客様のニーズと最新のホームページのトレンドをマッチングさせたうえで、お客様のご希望にあわせた対応が可能です。 詳細はチャットもしくは mexitown2020@gmail.com までご連絡ください。

  • リセオ(日本メキシコ学院)「これからの世界で活躍する人材を育てることのできる学校、リセオ」石松学院長インタビュー

    メキシコシティに1977年に開校以来、多くの優秀な卒業生を輩出した日本メキシコ学院(Liceo Mexicano Japonés, A.C. 以下、本文中はリセオ)。卒業生の中には日本とメキシコの発展に貢献している方々が名を連ねています。日本人とメキシコ人の両方の児童生徒を受け入れ、そこから多くの優秀な方々を輩出するリセオはどのような教育環境でしょうか。また、実際にどのような行事が行われているのでしょうか。 今回はそうした声にお応えすべく、リセオの石松学院長にインタビューを行い、リセオが今後目指す方向や求める人物像、行事のご紹介などを伺いました。 <目次> 日本の文化をベースとした教育をメキシコ人にも提供 各界で活躍するリセオの卒業生は大きな資産 日本コースとメキシココースのより深い交流の場を増やしたい 日本の大学からも評価されるリセオの人材 お互いの良い文化を吸収し、架け橋となる人材がリセオでは育成できます! 編集後記 学校情報 日本の文化をベースとした教育をメキシコ人にも提供 ーリセオには日本コースとメキシココースがありますが、それぞれの学生数などについて教えてください。 石松学院長:リセオは日本コース(日本人学校の位置付けとなるコース)は小学部と中学部、メキシココースは幼稚部から高校部までとなっています。日本政府認定の日本人学校としての日本コースの中に厳密には幼稚部はありませんが、メキシココース幼稚部の中に日本クラスとして日本人子弟も通いやすいクラスを設けておりますので、実質的に日本人の御子弟には幼稚教育から中学までのサービスを提供しております。日本コース、メキシココースそれぞれの在籍数ですが、日本コースは小学部が93名、中学部が33名の合計126名。メキシココースは幼稚部が152名、小学部が383名、中学部が240名、高校部が183名の合計958名です(2022年7月現在)。 2020年からの新型コロナウイルスのパンデミックにより、2020年9月からはリモートでの授業も実施しました。リモートでの授業では日本からリアルタイムで参加するお子様もいらっしゃったほか、教職員も教材の作成やリモートでも子どもたちが飽きの来ない授業を工夫することに苦労しましたが、何とか乗り越えることができました。 ー日本人学校としての日本コースだけではなく、メキシコ人向けの私立学校としてのメキシココースの両方が共存するリセオです。こうした特徴を持つ教育機関は珍しいですね。 石松学院長:リセオは日本人学校でもありますが、日本の文化をベースとした教育をメキシコ人にも提供していることが特徴としてあります。リセオで学んだ子供たちが将来的に日墨の架け橋となれるよう、文化交流企画局を組織の中に設置しており、リセオの行事を外部に発信・卒業生の交流などの役割を担っています。私は2019年12月から学院長に就任しましたが、「よし!これから文化交流をもっと積極的に行っていこう!」とはりきっていたところで新型コロナウイルスのパンデミックになってしまいましたので、まだまだ日本コースとメキシココースのお互いの交流、価値観のぶつけ合いと共有といった交流活動を思う存分に進められていません。しかし同時にパンデミックを逆手にとり、メキシココースでは日本にすむ同世代の子供たちと、彼らが日々学んでいる日本語と英語を駆使して積極的にオンライン交流を行っています。 リセオの校舎・施設 日本人社会にとってメキシココースの存在は価値があると考えています。メキシコ人にも日本文化の持つ規律・誠実さを伝えているということを、メキシコ国内だけではなく多くの方に是非知っていただきたいです。 ー校舎を見ても、例えば階段に「のぼり・くだり」としっかりとシールが貼ってありますね。こうしたところだけでも、日本の規律をメキシコ人にも教えたいという想いが伝わってきます。 石松学院長:リセオの校舎・施設は、45年前に日・墨両政府の支援を受け、日系進出企業、日系メキシコ人の方々の寄付と大変なご尽力の結果建設されたものです。約37,500平方メートルの広大な敷地に2面の運動場や体育館、プール、講堂などを備えたメキシコでは珍しいほど充実した施設が整っています。 日・墨の先人たちが残してくれたこのハードとしての立派な資産に、建学の精神である両文化を理解できるグローバル人材輩出というソフトの資産を更に積み上げていくのが、あとに続く私たちの役目だと考えています。 各界で活躍するリセオの卒業生は大きな資産 これからリセオの掲げる課題の一つとして卒業生の人的活用があると伺っていますが、具体的にどういう風に活用されていくお考えでしょうか。 石松学院長:リセオの卒業生には医者・弁護士・大学教授・外交官など様々な業界で活躍されている方がいらっしゃいます。最近日本で活躍されている女優の上白石萌音さんもリセオで3年間ほど学ばれていました。皆さん非常に優秀な方ばかりで、日本とメキシコの架け橋になるような活躍をされている方がいます。 優秀な卒業生の活躍を在校生にも知ってもらう活動として、メキシコ日本商工会議所を通じてインターンシッププログラムを行ったり、”Liceo Talks”と称して卒業生の方にプレゼンテーションをしてもらっています。Liceo Talks は来年度以降、在校生向けに積極的に企画していきたいです。 ただ、こうした優秀な方々が現在どこで・どのような活躍をされているのか、リセオ側で未だしっかりと把握できていないことが課題の一つです。現在そうした人的資源をより活用のために、データベースの作成を進めていますので、この記事をご覧になった卒業性の皆様、是非登録をお願いします(本記事最後にリンクがあります)!メキシコだけでなく日本、イタリア、ドイツ、カナダ、アメリカなど世界中にいらっしゃるので、リセオ創立50周年を迎える2027年には盛大に卒業生を交えてお祝いしたいですしね。 日本コースとメキシココースのより深い交流の場を増やしたい ー新型コロナウイルスのパンデミックがある程度落ち着いていますが、今年はどのような行事を行いましたか。 石松学院長:リセオは2022年度より基本的に全ての学校活動を対面で行います。日本コースとメキシココースが行う運動会・文化祭は新型コロナウイルスのパンデミックの影響で2年間実施できませんでしたので、今年行うことを楽しみにしています。特に運動会は日本独特の文化の一つですし、メキシコ人の保護者の方も積極的に競技に参加されています。 運動会などの行事の様子 日本コースの小学校6年生(11月)と中学2年生(1月)は、修学旅行を行う予定です。また、メキシココースでは毎年6月にWorld Show という行事を行っています。この行事は児童生徒が日本語・英語・スペイン語を駆使して各国の文化をプレゼンテーションするというものです。この行事はメキシココースの生徒が行うものですが、日本コースの生徒も参加し交流を行っています。 しかしながら、創立以来両コースの交流事業が形式的なものになってしまい、もっと他の方法で日本コースとメキシココースの生徒が友達となり、交流の深化を図ることが出来ないかが課題の一つです。その一環として2020年、同じ学年の児童が通年で合同クラスに参加する「お友達になろうプログラム」を始めました。1年間、定期的に同じ授業に参加することにより、従来は運動会などの行事でしか触れ合うことができなかった両コースの生徒たちの交流もより活発化することを目的としています。 日本人学校は世界に約100校あります。繰り返しになりますが、日本人向けのコースとメキシコ人向けコースの2つが共存する学校は非常に珍しい環境だといえます。こうした環境を活かして異なる文化を知るという経験を幼い頃からどんどんしていただきたいというのが本来のリセオの設立の精神でもあります。異文化を理解しあうことが出来る人材というソフトの資産の形成を、他ではできないレベルで実現できると確信しています。 日本の大学からも評価されるリセオの人材 ー日本の各教育機関や自治体との連携もしっかりあるので、今後保護者のご都合で突然転校することが出てきても安心なシステムがリセオにはありますね 石松学院長:はい、それが在外教育機関の大きな役割だと思います。日本コースからメキシココース高校部に進学し、東京大学、筑波大学などの有名国立大学に帰国子女枠で合格した生徒も多くいます。一方、メキシコ人生徒の進路サポートとして、上智大学など日本の有名大学と複数の協定を結んでおり、昨年は特別推薦枠や外国人選抜枠で7名が進学しました。大学側からもリセオからの入学者は非常に優秀で、大学が求めているダイバーシティを理解できる・今後世界での活躍が期待される人材だと高い評価をいただいております。特に国立大学では英語トラックの理系学部に進学する生徒も多く、英語が堪能であることがプラスになってます。 また、日本との提携でいいますと、メキシココースの生徒が毎年日本に研修旅行に行きます。その際ホームステイをするのですが、受け入れ先の一つとしてリセオのあるメキシコシティの姉妹都市・名古屋市があります。研修旅行が終わった後も、メキシココースの生徒がホームステイの受け入れ先とメールなどでやり取りが続いているなど聞くと、研修旅行を実施して良かったと思いました。今後は日本への入国も緩和されていくと思われますので、よりリセオの生徒が外に出ていく必要があると考えています。 ーリセオの英語教育も定評があると聞きました。 石松学院長:メキシココースの英語レベルはメキシコ国内でもトップレベルで、同コース英語部教員による講座を日本コースの生徒も受講することが出来ます。当院は、地元有力紙レフォルマが毎年発表するメキシコシティ私立高校のランキングで、8年連続No.1の座を獲得しています。インターナショナルスクールでは英語は学べるけれど日本語の学習が不安に思われている保護者の方々には、是非一度リセオを選択肢の一つとして考えていただけたらと思います。 お互いの良い文化を吸収し、架け橋となる人材がリセオでは育成できます! ー最後に、石松学院長の考える「リセオの卒業生・在校生に求める人物像」をお話しください。 石松学院長:異なる文化に触れることで、自ら考えぬくことが出来る子供になってほしいです。日本の規律も学びつつ、日本人に欠けているといわれている独創性や発言力を、メキシココースとの交流で補うことで、お互いの文化の良い点を吸収していただきたい。その先に、日本・メキシコの新たな架け橋となるような人材となることが期待できますので、是非リセオで学んでください! 経歴 石松 康司 Koji Ishimatsu 1982年に三井物産に入社し、発電プラント機器などの輸出などを扱う部署に配属になってアジア地域を担当していました。89年にメキシコに転勤となり、初めてラ米に足を踏み入れました。93年には当地でメキシコ人と結婚し、96年に帰国。その後、環太平洋の国々の発電案件の担当室長やカナダの発電事業会社の社長などを経て2008年から2016年までメキシコ三井物産の社長を8年勤めました。この間2009年にはメキシコ日本商工会議所(通称カマラ)から派遣されてリセオの理事を1年、更に11年から15年まではカマラ会頭を4年間務めさせて頂きました。 2016年に帰国後、内部監査を担当し、ニューヨークに1年駐在して2019年夏に退職し、同年末からリセオの学院長をしております。子供はメキシコで生まれた長男と日本で生まれた次男がいますが、二人とも2回目のメキシコ駐在時代にそれぞれリセオの中学部・小学部を卒業しています。 編集後記 おそらく多くの読者の皆様が海外の日本人学校に抱くイメージは「日本と同じ内容の教育をそのまま行う」ことだと思います。今回リセオの石松学院長、広報担当の岩村さんにお話しをお伺いし、それは全くの間違いだったことに気付き、こんな学校で学べる子供たちは恵まれた環境だと感じました。特に現在はダイバーシティへの理解・外国語の習得・グローバルに活躍できる人材が数年前とは違い、より高いレベルで求められている状況です。そうした世間へのニーズにこたえた人材をリセオは輩出できるような環境であることは間違いないです。 優秀な卒業生の方々に積極的に交流を持ちたいという課題も真剣に取り組んでいる姿も印象的でした。近年卒業生と在校生、または卒業生同士の交流が希薄になりがちですが、オンラインなどを活用しながらリセオの卒業生・在校生がつながり、また新たなソフトの資産を産み出すことを、MEXITOWN編集部は期待しています。 学校情報 所在地: Camino Sta. Teresa 1500 y 1510, Jardines del Pedregal, Álvaro Obregón, 01900 CDMX, México. MAP お問い合わせ先一覧:https://www.liceomexicanojapones.edu.mx/ja/contacto ホームページ https://www.liceomexicanojapones.edu.mx/ja リセオSNS公式アカウント(スペイン語のみ) Facebook https://www.facebook.com/LiceoMexicanoJaponesAC Twitter @LiceoMexJap_AC 記事内記載の同窓会の登録フォーム https://www.liceomexicanojapones.edu.mx/es/egresados-liceo

  • 速報【査証免除措置の再開】10月11日からの日本入国時の水際対策(9月26日更新)

    日本政府は9月26日、新型コロナウイルス感染症に関する水際措置の見直しの詳細を公表しました。 1.外国人の新規入国制限の見直し 外国人の新規入国について、日本国内に所在する受入責任者による入国者健康確認システム(ERFS)における申請を求めないこととします。併せて、外国人観光客の入国について、パッケージツアーに限定する措置を解除します。 2.査証免除措置の適用再開 査証免除措置の適用を再開します。 →1. 2. の措置により、外国籍の方で、COVID前の入国でビザ免除だった方々も日本に入国ができるようになります。外国籍の配偶者の方には朗報です。 3.検査等の見直し 新型コロナウイルスへの感染が疑われる症状がある帰国者・入国者を除き、入国時検査を実施せず、入国後の自宅又は宿泊施設での待機、待機期間中のフォローアップ、公共交通機関不使用等を求めないこととします。ただし、全ての帰国者・入国者について、世界保健機関(WHO)の緊急使用リストに掲載されているワクチンの接種証明書(3回)又は出国前72時間以内に受けた検査の陰性証明書のいずれかの提出を求めることとします。 4.入国者総数の管理の見直し 現在1日50,000人目途としている入国者総数の上限は設けないこととします。 有効なワクチン証明書については、以下の条件を満たしていることが必要となります。 1.日本で発行された証明書のうち、下記のいずれかに該当するものであって、ワクチンを3回以 上接種したことが分かるもの (1)日本政府又は日本の地方公共団体により発行された、新型コロナウイルス感染症予防接種 証明書(海外渡航用の新型コロナワクチン接種証明書) (2)日本の地方公共団体により発行された、新型コロナウイルスワクチン予防接種済証 (3)日本の医療機関等により発行された、新型コロナワクチン接種記録書 2.外国で発行された証明書については、(1)~(3)のすべてを満たすもの (1)下記の事項が日本語又は英語で記載されていること。 氏名、生年月日、ワクチン名又はメーカー、ワクチン接種日、ワクチン接種回数(注1) (注1)接種証明書が日本語又は英語以外で記載されている場合、接種証明書の翻訳(日本語又は英語)が添付 され、接種証明書の記載内容が判別できれば有効とみなします。 (2)下記のいずれかのワクチンを2回(Janssen COVID-19 Vaccine/ヤンセン(Janssen)の 場合は1回のみ接種をもって2回分相当とみなす。以下同じ。)接種し、かついずれかのワクチンを3回目以降に接種したことが分かること。(注2) 10月6日更新:SinovacとSinopharm、Cansinoも認められました。 日本帰国・入国時に有効と認められるワクチン種別が世界保健機構(WHO)の緊急使用リストに掲載されているワクチンとなり、SinopharmとSinovac、Cansinoも有効となりました。 「有効と認められるワクチン接種証明書(外務省及び厚生労働省において有効と確認し、以下のワクチンを3回目接種済みであることの証明書)」を保持している場合は、出国前72時間以内に実施したコロナ検査の陰性証明の提出を求めないこととされています。 (注:現在、メキシコ政府発行の3回目のワクチン接種証明書は発行されておりませんが、3回目のワクチン接種記録(COMPROBANTE DE REFUERZO DE VACUNACION CONTRA LA COVID-19)を1回目及び2回目のワクチン接種証明書と併せて提示することで有効と認められます。) 対象となるワクチン(世界保健機構(WHO)緊急使用リスト掲載ワクチン) コミナティ(COMIRNATY)筋注/ファイザー(Pfizer) バキスゼブリア(Vaxzevria)筋注/アストラゼネカ(AstraZeneca) スパイクバックス(Spikevax)筋注/モデルナ(Moderna) ジェコビデン(JCOVDEN)筋注/ヤンセン(Janssen) COVAXIN / バ ー ラ ト ・ バ イ オ テ ッ ク ( Bharat Biotech) ヌバキソビッド(Nuvaxovid)筋注/ノババックス(Novavax) The Sinopharm COVID-19 vaccine The Sinovac-CoronaVac vaccine コンビディシア(CONVIDECIA)/カンシノ・バイオロジクス(CanSino Biologics) (注:ジェコビデン(JCOVDEN)筋注/ヤンセン(Janssen)の場合は1回のみをもって2回分相当とみなされます。また、異なる種類のワクチンを接種した場合も有効と認められます。) https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcwideareaspecificinfo_2022C055.html (3)政府等公的な機関で発行されたワクチン接種証明書であること。 上記に満たしたワクチン接種証明書を保持していない方は引き続き、72時間前の陰性証明書が必要になります。 出所元URL:外務省海外安全ホームページ 新型コロナウイルス感染症に関する新たな水際対策措置(2022年10月11日以降適用) https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcwideareaspecificinfo_2022C083.html その他の情報につきましては、外務省海外安全ホームページをご確認ください。 https://www.anzen.mofa.go.jp/

  • 【イラプアトお知らせ】レストラン憲・10月7日(金)、8日(土)、刺身、すき焼き肉、豚バラ肉等、販売について

    イラプアトのRestaurant Kenより、お刺身等の販売のお知らせです。 10月7日、金曜日、9時半までにご注文頂ければ、お弁当配達時に、保冷バックにて配送致します。 10月8日、土曜日 12時から15時にて、レストラン憲にて、刺身を柵、切り身及びすき焼き用牛肉、豚バラ肉を販売致します。 お支払いについて、商品到着後、口座でのお支払い可能ですので、お問い合わせ願います。 販売価格(100g)  仕入れ価格により変動致します。 中トロ      $200 赤身       $200 ハマチ 鹿児島産 $200 しめ鯖      $100 サーモン     $80 スズキ      $80 鰻のかば焼き    $200/100g(約鰻丼1杯分です) 秋刀魚塩焼き1尾単品 $120 大根おろし付き イクラ     $150/25g 冷凍生雲丹   $150/25g ※大トロ、ヒラマサ、イカそうめんは品切れです。 ぶつきりミックス(マグロ、サーモン、ハマチ等) ぶつ切り丼用のタレ付き    $100 (100g当たりの価格です) すき焼き用薄切り牛肉 500g包装 $400 自家製割り下100g付き    在庫2kg限定 極薄カット豚バラ肉 500g(100g毎包装) $150 豚しゃぶ等可能です    在庫4Kg限定 レアチーズケーキ1個 $40 コーヒーゼリー 1個 $30 (別添シロップ付き) Restaurant Ken のインタビュー記事はこちら https://www.mexi-town.com/post/restaurant_ken 店舗情報 Restaurant Ken 憲 住所:Irapuato - Silao 250, 36810 Lo de Juárez, Gto. MAP 電話番号:462 117 4908 営業時間:月~土: 12–3PM 定休日:日曜日 ※夜の時間帯は4名以上の予約制となります。

  • 【レオンお知らせ】VINCULOレオン店10月の月替わりメニュー

    VINCULOレオン店より、月替わりメニューのお知らせです。 10月はぷりっぷりの海老が決め手、エビチリです! オレンジの色がこの時期らしいですね!ご注文お待ちしております! VINCULOのインタビュー記事はこちら https://www.mexi-town.com/post/vinculo 店舗情報 Vinculo Aguascalientes 店 住所:Av. Aguascalientes #2617 La España, 20205 Aguascalientes, Ags. México 電話番号:449 140 7965 営業時間:月曜日~土曜日:13時30分~21時、日曜日:12時~20時 定休日:月曜日 Vinculo Leon店 住所:Blvd. San Pedro 433 B, San Isidro, 37510 León, Gto. 電話番号:477 712 3747 営業時間:火曜日~金曜日:17時~22時30分、土曜・日曜:13時~20時 定休日:月曜日 ※貸し切り(2時間制)をご希望の方は、お店までご相談ください。 SNS Vinculo Aguascalientes 店 Facebookページ:https://www.facebook.com/Vinculo.Okonomiyaki Googleページ:https://vinculo.business.site/ アメブロ お好み焼き屋VINCULO店長のブログ@メキシコ:https://ameblo.jp/vinculotencho/

  • グアナファト州にもピラミッド発見!? Cañada de la Virgenをご紹介

    Hola!本日は読者の方からの記事でグアナファト州の遺跡をご紹介いただきます。ピラミッドというとティオティワカンやキンタナ・ロー州にある遺跡群を思い浮かべる方が多いと思いますが、MEXITOWN読者の方が多く住むバヒオ地区にもあります。では、どうぞ! こんにちは。グアナファト州に5つの考古学的地域があるのをご存知でしょうか? 今回私はそのうちの一つ、Cañada de la Virgenに行ってきました。 グアナファト州政府サイト Zonas Arqueológicas (guanajuato.gob.mx) メキシコ政府(INAH)サイト Zona Arqueológica Cañada de la Virgen (inah.gob.mx) 【アクセス】 San Miguel de Allendeの街から車で約30分の場所にあります。 車で行く場合は、こちらのビジターセンターを目的地としてください。 (公共バスなどは、周りにない様子でした) Centro de Atencion al Visitante Cañada de la Virgen https://goo.gl/maps/NunMih8ZeY84y5yj7 ビジターセンターの後ろには、ミニ博物館があります。 トイレも綺麗です。 売店などはないので、飲み物は持参になります。 物売りの方が来るようですが、私の行ったときは帽子売りの方のみいました。 【チケット・ツアー内容】 遺跡内部は、自分たちで勝手に見ることができません。 ビジターセンターでチケット(12歳以上70ペソ。メキシコ政府のサイトだと料金が古いです)を購入し、ツアー参加となります。 ガイドと共に、バスで遺跡手前まで行き、その後はガイドの引率で歩いて遺跡観光をします。ツアーの所要時間は約2時間半です。 バスは10~16時の1時間ごとに出発します。 遺跡には(バス乗車時)バッグの持ち込みが禁止されています。 ミニバッグやウエストポーチなどもNGです。 財布、カメラ、飲み物(ペットボトルや水筒)のみ持ち込み可能です。 荷物は車の中か、チケットカウンター内の鍵付きのロッカーに預けます。 バッグを持ち込もうとすると、バス乗車時に荷物を預けるように注意されます。 飲み物はボトルを手で持った状態となります。ポケットが沢山ある服だと便利だと思いました。 この日は独立記念日の翌日、9/17土曜の朝10時のツアーに参加しましたが、アメリカ人のグループもいて、20人ほどのツアーでした。 ビジターセンターから遺跡入口までは8kmほどあり、7kmはバスで移動します。(乗車時間約10分)バス乗車時はマスク必須です。バスから降りたらマスクは外してOKとなります。 バスを降り、遺跡入口までの残り1kmは歩きです。(15~20分) 歩道にはなっていますが、下り坂&上り坂で、石もボコボコしていて、小さいお子様や、足の悪い方には向かない場所だと思いました。 遺跡内は、平らな芝生になります。 遺跡に到着すると敷地のフェンスに鍵がかかっており、ガイドが開錠をして中へ入ります。 自分たちのグループ全員が中に入り終わると、また施錠していました。 遺跡内の石垣などに腰をおろすと、ガイドに注意されます。 かなり厳重に遺跡を管理している印象でした。 ガイドが説明をしながら、遺跡内をグループでまとまって見ていきます。 まだ考古学者によって研究は進行中の遺跡とのことでした。 遺跡の敷地内にはトイレのみがあります。売店などはありません。 自分たちのグループ以外、誰もいない状態でした。 Google mapの過去の写真を見るとピラミッドに登っている人がいましたが、 残念ながらピラミッドに登ることはできませんでした。 ピラミッド好きとしては登れそうだから行ってみたのですが…。残念。 もう一つの遺跡もあったのですが、そちらに関しての説明はなく「そっちへは行かないでください」と近づくことも出来ませんでした。 (ガイドがスペイン語だったので、説明をちゃんと聞いていなかったのですが、恐らくここが研究中の場所だった様です) →この遺跡はINAHが9/20から「考古学的地域」から、国内49番目の「考古学遺跡群」へ変更と発表されました。 El sitio prehispánico Cañada de la Virgen, en Guanajuato, es declarado Zona de Monumentos Arqueológicos (inah.gob.mx) テオティワカンやチチェンイッツアなどに比べると、とても小さな遺跡ですが、周囲は原っぱで、広々とした景色も見ることが出来ました。 私はサンミゲル旅行のついでに寄りましたが、バヒオ地区からは日帰りでも行ける場所だと思います。 遺跡好きな方は一度行かれてみてはいかがでしょうか? (文責:Leah)

  • 「私の生い立ちとメキシコ」高山智博・上智大学名誉教授

    今回は上智大学外国語学部イスパニア語学科の名誉教授・高山智博先生の記事です。先生は1937年に生まれ、今日メキシコで活躍されている方々に大きな影響を与えてきました。生い立ちの戦前から戦後、大学時代とメキシコでのお話しなど、貴重なお話しを頂きましたので、是非ご覧ください。 <目次> 縁故疎開 戦後社会 経済復興 上智大学 恩師たち 海外渡航 人類学学校(1) 人類学学校(2) 渡墨60年 編集後記 縁故疎開 1937年(昭和12年)、東京・神田の生まれ。1943年夏、国民学校1年の時、米軍の空襲が激しくなるからと、赤城山麓にある群馬の伯父の家に疎開させられた。 そこは二階建ての大きな家で、二階では蚕を飼っていた。一階の囲炉裏のある部屋では伯父が上座、家族と私は下座に座った。食事の際、伯父の料理の数はいつも一品多かった。農家なので飢えを感じることはなかったが、米は軍隊に供出していたので、クズ米と麦の混じったご飯を食べた。それに味噌汁と漬物。ご馳走は伯母が作るうどんだった。 疎開先では、生まれたばかりの赤ん坊の子守をさせられた。家にいる時はいつもその子をおぶっていた。楽しい思い出といえば、近所の子供と土手や小川で遊んだことくらいだ。 地元の国民学校では、校長の訓示の後、生徒たちは上半身裸になって乾布摩擦をした。終戦直後、校庭に不発弾が集められた。ある生徒がそれに触れたため爆発し、彼は即死。その破片が私の足元に突き刺さった。まさに間一髪、助かった。 1945年の3月10日と8月15日のことはよく覚えている。 3月10日の東京大空襲は疎開先の防空壕で見た。空全体が真っ赤に染まり、この世が終わるのではないかと思った。しかし恐怖心は湧かず、地上最大のスペクタクルを見ているような気がした。 8月15日の玉音放送は近所の大人たちに混じって聞いた。しかし話の内容は分からなかった。後になって日本が戦争に敗れたと教えてもらった。 戦時中、鬼畜米英と教わっていたので、米軍が進駐してきたら、殺されると思った。そこで殺される前に自殺しようと、遊び友達と死に場所を捜しに行ったことを記憶している。 それから少し経った頃、原っぱを歩いていたら、どこからか並木路子が歌う「りんごの唄」が聞こえてきた。その瞬間、それまでの重苦しい空気が消え失せ、周囲がパッと明るくなったような気がした。この歌によって、私は世の中がかわったことを実感した。 縁故疎開は我が人生の原点だったと言えよう。 戦後社会 1946年2月、私は神田の実家に戻った。満員列車から見た下町一帯は焼け野原だった。今もその情景が脳裏から離れない。神田駅の高架ホームに着いて、まず目に入ったのは、日本橋の三越、宮城、そして富士山だった。幸いにも我が家のある一角は焼け残った。 駅前には闇市が立っていて、その雑踏の中に戦地から戻ってきた傷痍軍人の白衣姿もあった。この時、人前で日本人を殴っている米兵を見た。しかし誰も見て見ぬふりをしていた。こうした事態になったのは、日本が戦争に負けたからなのだ。 戦後間もない頃は、宮城のお掘で魚釣りをしても咎められなかった。家から釣竿とバケツを持ってお堀に行く途中、鉄条網で囲まれた米軍基地の前で、米兵からチューインガムを貰ったことがある。魚が釣れたかどうかは覚えていないが、鬼畜米英と聞かされてきたアメリカ人は鬼ではなかった。 当時は大変な食糧難だった。近くの食堂で列に並んでやっと食べたものが、米も野菜も殆ど入っていない重湯に過ぎず、しかもすごく不味かった。アメリカ産のトウモロコシで作ったセンベイも、硬くて、味が殆どなかった。多分、家畜用のトウモロコシだったのだろう。その頃、ヤミ米を買わずに、配給だけで暮らして栄養失調で死んだ校長先生の話を聞いた。しかし貧しかったが、平和なので、世の中は暗くなかった。 楽しかった思い出もある。有楽町の日劇で観た歌手の笠置シズ子と喜劇俳優のエノケンの舞台だ。私が疎開で世話になったからと、親に連れられて、群馬から出て来た伯父といとこと一緒に行った。 「東京ブギウギ リズムウキウキ 心ズキズキ ワクワク 海を渡り響くは 東京ブギウギ」。笠置シズ子が派手な身振りで唄う姿は今も脳裏に浮かぶ。 二人の賑やかで楽しい舞台に圧倒されたからだろう。図画の宿題で描いたのが、この時の笠置シズ子とエノケンの似顔絵だ。学校に提出したあの絵が、その後どうなったか、長いこと気になっていたが、とうとう戻って来なかった。 その後、国民的人気を博したのが歌手の美空ひばりだ。彼女主演の映画「悲しき口笛」を三越劇場で身動きもできないような満員の中、やっとの思いで見た。私はひばりと同じ歳なので、余計に興味があったのかもしれない。 小学5、6年の頃、未知のものに対する好奇心が旺盛になった。近所の児童図書館に行って、様々な本を手当たり次第読んだ。その中で印象に残ったのが、ギリシャ神話である。他方、外国切手の収集に興味を持ち、貿易会社などを巡って、使用済みの切手を貰ったこともある。外国に憧れはじめたからだろう。その頃流行った歌謡曲が岡晴夫の「憧れのハワイ航路」だ。 私は少年時代に、戦中・戦後という全く違う二つの日本を体験した。これが我が人生における最大の出来事だった。 経済復興 水泳の古橋広之進が、1949年の全米選手権で世界新記憶を樹立した。この快挙は意気消沈していた国民に自信と希望を与えた。翌年、私は神宮プールで開催された日本選手権で、彼の勇姿を目の当たりにした。 1950年、野球で知られた中学に入学した。その頃、熱烈な巨人ファンだったので、読売新聞社のファンクラブに入って、選手のサインを貰ったり、後楽園で試合を見たりした。川上哲治などが活躍した時代である。 中学では、野球部への入部希望者が多かったため、校庭で遠投のテストが行われた。私もボールを投げたが、遠くに飛ばせず、不合格になった。そこで野球は諦め、講道館で柔道を習いはじめた。それから4、5年、熱心に練習した。道場の少年部に来られた三船久蔵十段の乱取りの相手に選ばれたこともあった。また槍ヶ岳や穂高に登ったことで、山好きになった。しかし途中から登山と旅は単独行にかわった。この方がマイペースで歩けるし、人との出会いも楽しめるからだ。この頃よく、「山のあなたの空遠く、幸いすむと人のいう」とカール・ブッセの詩を口ずさんだものだ。 さらに安カメラでの撮影にも興味を持った。エデット・ピアフの「愛の賛歌」を唄う越路吹雪が人気だったので、その舞台を見るため日劇に行った。私が撮った写真の最初の一枚が、その時の越路吹雪である。 1952年から54年にかけて、NHKのラジオ放送「君の名」が日本中を熱狂させた。このドラマの筋は、東京大空襲の夜、焼夷弾が降り注ぐ最中に出会った男女が逃げ惑いながら、数寄屋橋にたどり着く。二人は名も告げず、この橋で再会することを約束して別れるというもの。その舞台となった数寄屋橋にも写真を撮りに行った。その橋も、下を流れる川も、今はもうない。 高校3年の時、ある年配の教師が我々の進路に関して、「人がやってないことをやるべし」と語った。この一言が私の胸に突き刺さった。 上智大学 高校時代、わが国ではアルゼンチン・タンゴがブームであった。その名曲の一つに「アディオス・パンパ・ミア(さらば草原よ)」がある。そのパンパがなぜか別天地のように思えた。さらにそこでの牧場暮らしを夢みて、親にも告げずに、アルゼンチン大使館に出向いた。その時、大使館員から「スペイン語はできるか」と聞かれた。「できない」と答えると、「スペイン語を学んでからにしなさい」と諭された。 そこでスペイン語の講座がある上智大学に入学した。この大学がキリスト教系大学であることにも魅かれた。それは戦前の皇国史観とは違う世界観を求めていたからもしれない。しかし第一印象といえば、大学食堂で食べたハンバーグ。値段は25円。世の中にこんなに美味いものがあるかと感動した。 当時、上智大学は男子校だった。教師の多くがイエズス会士であり、彼らはローマン・カラーの詰襟に黒服、学生も黒い制服姿だったので、大学全体が何となく暗い感じだった。 我々は文学部外国語学科イスパニア語(つまりスペイン語。この用語の使用は<昔、日本ではイスパニアという言葉を使っていたので、この語を復活させたい>というスペイン人教師の意見で決まった)専攻の2期生。受験者数が少なかったため合格したような連中で、しかもアルバイトを必要とする貧乏学生が多かった。それでも皆が夢を持っていたように思う。 その頃、課外活動の一つスペイン語文化研究会が発行した新聞に、「最近中南米では日本の若者、それも彼の地を第二の故郷と目し、建設の意欲に燃えた、そして教養のある青年を待っている」という記事が載った。言うまでもなく同期の多くが、ラテンアメリカへの移住、ないしは企業からの派遣を望んでいた。 ただ私だけが留学志望だった。その理由はウィーン大学のロベルト・ハイネゲルデルン教授の「アメリカ大陸の古代文明の発生には、アジアからの影響があったのではないか」という仮説に興味を持ったからだ。1957年のことである。それで調べて見たいと思ったのが、アジアの龍とメキシコの羽毛ある蛇(ケツァルコアトル)の比較である。どちらも水に関連した空想上の霊獣で、しかも天に昇るからだ。しかし日本にはそれに関する資料がなく、専門家もいなかった。 上智ではこの年、女子学生の入学を認めるか否かで、学生投票が行われた。その結果、賛成多数で女子の入学が認められ、1958年から女子が徐々に入るようになった。イスパニア語専攻も外国語学部イスパニア語学科にかわった。 その年、東京大学は、ペルーを中心に栄えた古代アンデス文明を研究する調査団を派遣した。そこで私は日本人の誰もやっていないマヤ・アステカといったメソアメリカ古代文明が栄えたメキシコに留学したいと決めた。1960年、幸いにもその希望が実現した。 1964年、その留学から帰国すると、上智では女子学生が増えていて、雰囲気ががらりと明るいものになっていた。 恩師たち 上智大学時代に世話になった恩師たちを紹介したい。 まずはフランツ・ボッシュという名のドイツ人神父。我々イスパニア語専攻の2期生には粗野で奔放な連中が多かったので、真面目な他の上智大生とは違うと異端視された。そこでボッシュさんが我々のために、「公教要理」というカトリックについて学ぶ会を開設してくれた。ボッシュさんは<愛>を強調した。神の愛についてだが、その頃の若者は愛という言葉に全く慣れておらず、その言葉を聞く度に、愛欲を連想して恥ずかしい気分になった。 学生指導部長でもあったボッシュさん(学生からは親父と呼ばれていた)は日夜、学生のために尽力した。しかし1958年11月、心臓麻痺で急逝した。それがあまりに突然だったので、大学中が慟哭した。カトリック墓地に土葬された。私も祈りながら、遺体に土をかけた。これで上智の一つの時代が終わったと感じた。 2人目はフランス人のポール・リーチ神父。ボッシュさんの「公教要理」を引き継いでくれた先生だ。「落語が好き」と話していたので、聞く方の日本語は大丈夫だったのだろう。しかし話す方は殆ど理解不可能だった。覚えているのは、サルトルとか、実存主義とかいった言葉くらいだ。ともかくリーチさんのユーモアのある、そして誠実な人柄に私は惹かれた。 そのリーチさんが、1995年に亡くなられた。「死とはこんなにあっけないものか」というのが、最期の言葉だったと聞いた。 3人目は我らの兄貴と呼べるコロンビア人のファビオ・ビジェーガスという神学生。彼がクラス担任として、ボッシュ神父の「公教要理」の会を準備してくれたのだ。 1958年5月、ビジェーガスさんが精神的な病で帰国することになったと聞いた。そこで我々は慌てて羽田空港に駆けつけた。しかし少しも病人のようには見えなかった。この年の4月からイスパニア語専攻がイスパニア語学科にかわった。新学科を任されたスペイン人神父が、スペインの<正統な>スペイン語を教えたいと、ラテンアメリカ出身のビジェーガスさんのスペイン語を方言扱いしたことが、帰国の原因になったような気がした。 1997年、2期生一同が渡航費を捻出して、ビジェーガスさんを日本に招いた。彼はコロンビアに戻った後、イエズス会を脱会し、結婚して子供もいるという。奥さんを連れてやってきた。本当に嬉しそうだった。我々もビジェーガスさんと40年ぶりに再会できて、こんなに嬉しかったことはなかった。 私が入学した当時の教師は、授業で科目に関して教えるだけでなく、学生の人格形成にも熱心だったように思う。 海外渡航 移住できる国が、1952年にアルゼンチンとブラジル、1956年にドミニカ共和国、さらに1957年にはボリビアと広がって行った。その理由は日本がまだ貧しかったからだ。しかしこれは若者の不満やエネルギーを国外に発散させようという国策でもあった。 日本学生海外移住連盟という組織が1955年に作られた。上智でもスペイン語文化研究会が移住サークルを新設した。それにイスパニア語専攻の2期生が30名近く参加した。将来、ラテンアメリカへ進出して、活躍したいと願う連中たちだ。しかしまだ海外に出ることは至難の技だった。 私はメソアメリカ古代文明に魅せられていたので、メキシコ行きを希望した。それは我が国にそれらに関する文献も、その専門家もいなかったからだ。その頃、文通していた日系人に相談したところ、メキシコ古代史に詳しい人物として紹介されたのが、メキシコ市在住の荻田政之助氏である。 さらにメキシコ国立人類学歴史学校にも手紙を出したら、その学長から入学を歓迎するという返事を受け取った。しかしその直後、メキシコ市にあるイベロアメリカ大学(イエズス会経営)、つまり上智大学の姉妹校に私立大学初の「人類学学校」(後に「人類学科」と変更)が1960年3月から開設されるという情報を得た。しかも幸いなことに、その創設に携わった教授がアジア諸国歴訪の途中、上智に立ち寄られた。そこで「イベロアメリカ大学で勉強したい」と伝えたところ、入学を勧められた。 ただしその実現には1年半ほどかかった。様々な書類(10本指の指紋を添付した犯罪証明書、戸籍謄本、奨学金を得るための申請書など)を、日本語、英語、スペイン語で作成して、それぞれメキシコ大使館、日本外務省、イベロアメリカ大学に提出して、認可を得なくてはならなかったからだ。大使館は私のために「学生・移民」と書かれた特別ビサを発行してくれた。当時は海外渡航がまだ自由化されていなかったので、国外に持ち出せる米ドルは500ドルと制限されていた。 両親は私のメキシコ行きに口出ししなかったが、母の知り合いの女性から、「神田っ子はメキシコなんぞに行かなくてもよい」と言われた。しかし私の決心は変わらなかった。留学を手伝ってくれたメキシコ人と日系人に善意を感じていて、このような人々が住む国なら間違いないと確信していたからだ。 1960年はラテンアメリカに移住した日本人が戦後最多だった。しかし上智でこの年、ラテンアメリカに渡航できたのは、リグナムバイタ(世界一堅くて重い木材、船のスクリュープロペラなどに使用)の輸入のため、業者によってドミニカ共和国に派遣された同級生と、メキシコ留学した私の2人だけであった。 人類学学校(1) 1960年3月、念願のメキシコ行きを実現した。そこでメキシコにやってきた最初の日本人学生と言われた。しかし日本では当時、メキシコは後進国というイメージが強かったので、勉強でメキシコへ行くという意図が、周りの人たちに理解してもらえなかった。留学といえば、欧米の先進国と決まっていたからだ。しかし来てみると、メキシコの教育レベルは日本と大差なかった。違いといえば、イベロアメリカ大学の学生が自家用車通いだったのに対して、上智の学生は満員電車通いだったことぐらいだ。ただし私はソカロ(中央広場)からすぐのところにあった荻田家(当初、ここに居候させてもらった)から、市の外れにあるサン・アンヘルまで路面電車を利用した。 メキシコの第一印象は、何と豊かな国だろうというものだった。日本では高値の花だったバナナがただ同然だったり、浮浪者風の男がチキンを丸ごと一羽買ったりするのを見たからだ。 それとメキシコで気をつけたのが、レディー・ファーストとテーブル・マナ—だ。女性と一緒の時は男性が車道側を歩く。殆ど貧しい大衆だけが利用する市内バスでも、女性が乗車すると男は必ず席を譲っていた時代だ。もちろん、スープを飲む時は音を出さない。学生国際会議のパーティーに出たことがある。日本から来た学生たちと同席だった。彼らはスープを飲む時、音を出していたので、注意をしたら、「日本式に飲む」と言って、さらに大きな音を出して啜った。周りの者たちがびっくりして、席替えをした。しかし日本の学生たちは顰蹙を買ったことすら気がつかなかった。 人類学学校1期生として入学したこの学校のキャンパスは、サン・アンヘルという市南部の静かな高級住宅地にあった。そこは現在、高級レストランになっていて、天皇陛下も皇太子時代、メキシコで行われた水関係の国際会議に出られた際、このレストランで食事をなされたと聞いた。 学生たちは車を大学前に駐車した。子供たちがチップ目当てにそれらの車を見張っていた。小学校の上級生くらいの年齢なのに、学校には誰も通っていないらしい。この光景が貧富の差に気づいた最初の瞬間であった。 国立大学は、学費が安いので、様々な階層の若者が集まっていた。しかし私立大学は高いので、限られた階層の者しか行けなかった。イベロアメリカ大学の人類学学校のクラスメートは、中でも上流階級の子女ばかりだった。 ルスマリアは「メキシコ革命」の父と呼ばれたフランシスコ・マデロの姪と聞いてビックリした。なぜなら1910年に勃発したメキシコ革命を、過去の歴史上の出来事と思っていたからだ。 アナエレナはメキシコ革命で医者として活躍したことで知られるメヒコ州知事の娘だ。ある時、彼女の父の車で、クラスメートとハイキングに出かけたことがあった。その車は彼女が住む州都のトルカを、信号無視で通過したので、あっけにとられた。 セシリアの先祖は、メキシコ北部に広大な土地を所有していたそうだ。彼女は休暇にはアカプルコのプライベート・ビーチか、フランスの元貴族の宮殿で過ごすと言っていた。 エレナの祖父はスペイン人だが、祖母は先住民と聞いた。つまりエレナはメスティソ(混血)の2代目。そのせいか人の気持ちを思いやる繊細な性格の持ち主だった。しかし彼女は優秀なので、後にハーバード大学で博士号を取得した。 ある時、教師の一人がクラスメートに世界地図を見せて、日本はどこかと尋ねたら、教養溢れる彼女たちが、フィリピンやインドネシア辺りを捜して「日本が見つからない!」と答えた。逆にメキシコがどこか分からない日本人も、その頃はいたはずだ。後にアメリカ・カナダ・メキシコの三国で交わされた協定の名称が、「北米自由貿易協定(NAFTA)」であることから推察できるように、メキシコの大部分は地理的に北米に属する。 留学した年は、カルチャーショックの連続だった。しかし人間は皆同じだと、認識した年でもあった。 人類学学校(2) 人類学学校の教授陣は充実していた。そのうちの五人を紹介する。 まず学校長のヒメネスモレノ先生。メキシコ人類学会の創設者の一人で、アステカ研究の権威。当時はまだメソアメリカ文明に関する詳しい年表もない時代だったので、授業では自作のものを用いていた。また我々をよく古代遺跡や植民地時代の教会見物に連れて行ってくれた。 スワデッシュ先生はアメリカ生まれの言語学者。1948年のマッカーシーの<赤狩り>では、学問の自由のために戦った闘士だったらしい。1954年、メキシコにやってきて、この国の言語学研究の近代化に貢献した。また<言語年代学>の創始者としても国際的に知られていた。しかし私は先生のスケールの大きい、そして人間味あふれた人柄に魅かれた。 ビジャロハス先生はユカタン半島のメリダ出身。インディへニスモ研究所の指導者の一人。マヤ語のネイティブとして、アメリカの民族学者レッドフィールドの調査に協力したことがきっかけで、シカゴ大学に留学して、人類学を学んだ。授業でこの話を何回も聞いた。 ダルグレン先生はスウェーデン生まれの女性民族学者。日本から来た私によくしてくれた優しい先生だった。娘さんの結婚式に招待してくれたこともあった。ミステカ族の研究を専門としていた。 ヨロトルさんは一番若い女の先生で、学生たちの世話役でもあった。国立人類学歴史学校の在学中、奨学金を得てインドに留学。帰国後、人類学学校でアジア研究センターの所長になった。しかしメキシコではまだアジアに対する関心が殆どなかったので、彼女はいつも宣伝のために、インドのサリーを着て、学外で活動していた。私は先生から「メキシコでは、黙っていては神様だって分かってくれないわよ」と言われた。授業で殆どしゃべらなかったからだろう。イベロアメリカ大学で習った先生で存命なのは、ヨロトルさんだけである。 1961年12月、メキシコ市で開催された「日本産業見本市」では、三井物産から依頼されて、コマツのトラクターのアルバイトをした。アメリカのキャタピラが全盛の時代だ。そこに日本のトラクターを売り込もうという役目だったが、「アフターサービスはどうなっているのか」とよく質問された。会場には日産のダットサンも展示されていた。メキシコ人はヨーロッパ製の小型車に慣れていたので、デザイン面であまり評判がよくなかった。ともかくこのアルバイト代のお陰で、翌年1月上旬、マヤ研究の権威アルベルト・ルス教授が引率する「マヤ遺跡巡り」旅行団に参加できた。このツアーで古代マヤ最大の遺跡ティカルにも行ったが、日本人でこの遺跡を訪れたのは私が最初だったに違いない。 同年1月中旬、ペルー在住の天野芳太郎氏(東大のアンデス調査団を協力した人物)から「ペルーに来るなら援助しますよ」という手紙を受け取った。是非実現したいと、再びアルバイトをした。今度は東芝が新設する変電所での日本人技師の通訳の手伝いだった。 大学が休暇中の11月下旬から1963年1月下旬にかけて、ペルー、ボリビア、エクアドルへの一人旅を実行した。 1964年、帰国して上智大学イスパニア語学科の教員になった。この年、日本は東京オリンピック開催、東海道新幹線開通など、目覚ましい発展ぶりを示した。それとは逆に、海外移住熱はアッという間に下火になってしまった。 渡墨60年 1960年以来、60年の間に40回もメキシコをはじめラテンアメリカ諸国を訪問した。 例えば、2回目(1966年)は堀江謙一のヨットによる太平洋一人旅に刺激されて、貨客船で太平洋を横断。その大きさを実感したかったからだ。 9回目(1977年)。メキシコはスペインと40年ぶりに国交回復。早速、独裁者フランコ亡き後のスペインを見たいと、この国へ飛んだ。 15回目(1983年)は、経済活性化のため外国人の入国を認めたキューバに行った。その国民の海外渡航は禁じられていたが、社会状況は安定していた。 23回目(1992年)は、「コロンブス新大陸到達500周年」をめぐる論争の行方や各国の社会状況を知るために、スペイン語圏全体を一巡した。 そして40回目(2019年)。メキシコ留学から足かけ60年になるので、我が母校イベロアメリカ大学人類学科を訪ねて、旧交を暖めた。 私は好奇心のままにメキシコなどへ出かけたが、それぞれに目的があったことはいうまでもない。それらで得られた体験や知識は全て、学生たちに伝えた。 1971年から日本・メキシコ間で、「日墨研修生・学生等交流計画」という制度が実施されるようになり、私はその第1回に参加した。1994年には、この交流計画の元派遣生たちが「日墨交流会」という親善と相互理解を目的とする会を設立した。私はその会長として、80歳まで務めた。この間、一般の人向けにメキシコに関する様々な講演会を開催した。 この他、メキシコを知るための本として、オクタビオ・パスの著書『孤独の迷宮—メキシコの文化と歴史』(法政大学出版局)と、オスカー・ルイスの著書『貧困の文化—五つの家族』(ちくま学芸文庫)を共訳した。 私のモットーは<メキシコに学ぶ>である。メキシコにいる若い日本人にもそうあってほしいと願いたい。 最近の若者はチャレンジ精神に欠けると言われている。それを打ち破るには、まず<好奇心>を持つこと。そして進むべき目標が決まったら、迷わず邁進する。そうすれば、いずれ幸せも付いて来るに違いない。 我が人生は道なき道をがむしゃらに歩いただけかもしれない。しかし悔いは全くない。旅の道すがら、すばらしい自然や文化、そして人々に出会えたからだ。 <旅は道連れ世は情け>と言うが、まさにその通りであった。 編集後記 メキシコのことを長年研究されてきた高山先生に、85年の生涯を生い立ちから現在に至るまでを語っていただきました。先生が見てきた日本とメキシコの85年間。それは後世に必ず残したいと思えるほどの体験談でした。スペインの独裁者フランコ亡き後のスペイン、外国人の入国を認めたキューバなど。目的をもってラテンアメリカに渡航し、その体験談を教え子の方々に伝えることほど、生きた歴史を学べるのだと思いました。 そして言葉一つ一つに説得力があり、その言葉の持つ力強さが編集部にも伝わってきました。特に最も印象に残った言葉が「メキシコに学ぶ」という先生のモットーです。普段何気なくメキシコ人とやり取りをしていて、不満が多くなることが多々ある中でこの一言に重みを感じました。メキシコにいる限りはメキシコにお世話になっている。メキシコに日々感謝し、彼らから学べる事を吸収するべきだと改めて感じました。 編集者紹介: 温 祥子(Shoko Wen) MEXITOWN編集長兼CEO。メキシコ在住5年半。MEXITOWN立ち上げて今年で3年目に突入。これからも様々なジャンルの方をインタビューしご紹介していきます!趣味は日本食をいかにメキシコで揃えられる食材で作ることができるか考えること。日本人の方が好きそうな場所を探し回ること。

  • 【イラプアトお知らせ】Restaurant Ken 憲 10月1週目 日替わりメニューの御案内

    イラプアトのRestaurant Kenより、日替わりメニューのお知らせです。 塩鯖弁当 $130 継続します。 日替わりメニューについて 10/3 月曜日  豚バラの野菜炒め Tocino laminado y verduras salteados 10/4  火曜日  白身魚のホイル焼き 味噌バターソース Pescado blanco en salsa mantequilla empapelado 10/5 水曜日  鶏の甘辛煮 Pollo en salsa amakarani 10/6 木曜日  肉うどん Niku udon 10/7 金曜日  海老チリ Ebi chili ※お弁当メニューはこちらからダウンロードできます↓ お弁当のご注文はこちらのメールにて、 当日9時までに頂きますようにお願いします。 尚、KEN弁当に関しましては予算や内容などの確認もありますので、 3日前までにご注文頂きますようお願いします。 宜しくお願い致します。 Restaurant Ken のインタビュー記事はこちら https://www.mexi-town.com/post/restaurant_ken 店舗情報 Restaurant Ken 憲 住所:Irapuato - Silao 250, 36810 Lo de Juárez, Gto. MAP 電話番号:462 117 4908 営業時間:月~土: 12–3PM 定休日:日曜日 ※夜の時間帯は4名以上の予約制となります。

  • 【ケレタロ】Juriquilla地区のお洒落カフェで朝食を "Brioche Bakery"

    こんにちは。ケレタロのJuriquilla地区といえば、FUJITAYA QUERETAROやHEB、Chedraui Selectoがあり、日本料理レストランが多く点在するお洒落なエリアです。そんなエリアをふとGoogle Mapで眺めていると、Briocheという文字が。編集部は気になって調べてみたら、とてもお洒落なカフェでしたので、早速行ってみました!Juriquillaエリアでお茶をしたり、気の置けない仲間と朝ごはんをしたりするにはとてもぴったりの場所です。 場所はANYTIME FITNESSやTOYO FOODSが入っているVilla Santa Fe。その2階にあります。入口からしてかわいい! 店内も明るい雰囲気で、夜はバーになります。メニューもエッグベネディクトやフレンチトーストまであり、どれにするかとても迷いました。写真を撮ることが出来ませんでしたが、バーカウンターのところには、焼きたてのパンがずらりと並んでおり、テイクアウトとしてお店に立ち寄るのもいいなと思いました。特に、シナモンロールの存在感がすごかった!きっと甘いんだろうけど、食べてみたい・・・ この日注文したのはシンプルにクロワッサンとカフェラテ。クロワッサンはなんとフレンチフライまでついてきたため、ブランチとしてはボリューム満点!これなら奥様といらしたお父さんでも満足できますね! カフェからの眺めもよく、特に日曜日の朝は静かでのんびりと朝ごはんを堪能できました。 ランチのハンバーガーもボリューム満点!さすがベーカリーだけあって、ハンバーガーのバンズもふわふわで美味しかったです。 今度はカフェとして使って、パンをお持ち帰りしたいです。 Brioche Bakery 所在地: Santa Teresa esquina Anillo Vial 2 Fray Junípero Serra, Local 38, Santa Fé, 76230 Juriquilla, Qro. MAP

  • 【イラプアトお知らせ】レストラン憲・9月30日(金)、10月1日(土)、刺身、すき焼き肉、豚バラ肉等、販売について

    イラプアトのRestaurant Kenより、お刺身等の販売のお知らせです。 9月30日、金曜日、9時半までにご注文頂ければ、お弁当配達時に、保冷バックにて配送致します。 10月1日、土曜日 12時から15時にて、レストラン憲にて、刺身を柵、切り身及びすき焼き用牛肉、豚バラ肉を販売致します。 お支払いについて、商品到着後、口座でのお支払い可能ですので、お問い合わせ願います。 販売価格(100g)  仕入れ価格により変動致します。 中トロ      $200 赤身       $200 ヒラマサ     $80 ハマチ 鹿児島産 $200 しめ鯖      $100 サーモン     $80 スズキ      $80 鰻のかば焼き    $200/100g(約鰻丼1杯分です) 秋刀魚塩焼き1尾単品 $120 大根おろし付き イクラ     $150/25g 冷凍生雲丹   $150/25g ※大トロ、イカそうめんは品切れです。 ぶつきりミックス(マグロ、サーモン、ハマチ等) ぶつ切り丼用のタレ付き    $100 (100g当たりの価格です) すき焼き用薄切り牛肉 500g包装 $400 自家製割り下100g付き    在庫2kg限定 極薄カット豚バラ肉 500g(100g毎包装) $150 豚しゃぶ等可能です    在庫4Kg限定 レアチーズケーキ1個 $40 コーヒーゼリー 1個 $30 (別添シロップ付き) Restaurant Ken のインタビュー記事はこちら https://www.mexi-town.com/post/restaurant_ken 店舗情報 Restaurant Ken 憲 住所:Irapuato - Silao 250, 36810 Lo de Juárez, Gto. MAP 電話番号:462 117 4908 営業時間:月~土: 12–3PM 定休日:日曜日 ※夜の時間帯は4名以上の予約制となります。

  • 今すぐにでも行きたくなるメキシコ!①カンクン

    こんにちは。今回は今すぐにいきたくなるようなメキシコの風景をご紹介!ということで、有名な観光地カンクンとその周辺の写真をご紹介します。今回、MEXITOWNにお写真をご提供いただきましたのは、日墨学院(リセオ)の美術の先生、西尾先生です。 お写真が趣味で、今年4月にメキシコに来たばかりの西尾先生が撮影するメキシコはどのような風景でしょうか。早速見て行きましょう。 まずはカンクンから行けるスポットとして人気の高いセノーテ。 セノーテはカンクンから南に3時間ほど行くと色々な場所にあります。 セノーテに差し込む光がきれいに映っています。 なんともいえないブルーの美しさ コントラストがはっきりとしていますね こういったグルメもカンクンならでは! 天の川の美しさに吸い込まれそうな写真です。 この一瞬をとらえるのが相当大変だったそうです。

  • 鴻巣勝明氏「シベリア鉄道でメキシコへ」

    今回は人生の半分以上をメキシコで生活され多彩な人生経験をお持ちの鴻巣勝明氏の記事です。学生時代からスペイン留学を機にヨーロッパを旅した後に世界に魅せられ、メキシコに行った鴻巣氏。インタビューでは学生時代のお話からメキシコでの出来事、今とは違うメキシコの観光業など。そんな人生を通じて得た次世代へのメッセージも込められています。 <目次> 何でも見てやろう、スペインへ! シベリア鉄道から始まった鴻巣氏の世界旅行 メキシコでメキシコ線実現へ! 海外から海外に行くハードルは高くない! ストレスをためず、人生を楽しむ方法を見つけてください! 編集後記 何でも見てやろう、スペインへ! ―鴻巣さんは大学時代から海外に留学し、今では想像のできないような経験をされています。 鴻巣氏:全ては私が大学2年生の頃に始まります。大学でスペイン語を学んでいましたが、やはり本場のスペイン語を勉強したいという想いが募り、何とかスペイン行きを実現したく色々な努力をしました。スペイン中の多くの大学に申請した結果幸いマドリード大学の夏期講習に奨学金を取得し1961年9月22日に日本を出発したことを今でもはっきりと覚えています。「百聞は一見に如かず」じゃないですが、スペインを見ないとスペイン語の勉強がつまらなくなると感じていましたね。勉強しているスペイン語をネイティブと話すことで、自分の能力を再確認することが必要だという気持ちもありました。 実際スペインに行くと大学で勉強していた世界とはまるで違う日々が待っていました。そんな日々に追われていく中で、更にもっと広い世界を観たいと思ったのが世界旅行を始めるきっかけにもなったかもしれません。 シベリア鉄道から始まった鴻巣氏の世界旅行 ―スペインまではどのように行かれたのですか。その当時は今のように自由に歩き回ることが出来なかった中で、どのようにしてスペインまで渡ったのかが気になります。 鴻巣氏:当時の海外旅行には渡航制限があり、自由に行き来できませんでしたが留学と言う大義名分で旅券がおりました。それからは何しろアルバイトする苦学生でしたのでスペインに行くための一番安いルートを探しまくりました。 当時は1ドルが360円で日本→ローマ間の片道航空券が約30万円の時代です。大卒の月給が1万5千円弱の時代ですから、そう簡単にいけるものではなかったのです。そこで私達はこの年再開したナホトカ航路・シベリア鉄道を利用する横浜港からオーストリアのウィーンまでの10万円を切った旅費を見つけました。 戦後このルートでウイーン迄行ったのは我々が第1号だったそうですがその後このルートを利用して沢山の若者がヨーロッパへ行ったのです。 ―横浜港からというと、船に乗ってその後は鉄道というルートですか。 鴻巣氏:そうです。まず、横浜港から津軽海峡を経由し、ソ連(ロシア)のナホトカへ。その後シベリア鉄道に乗りモスクワに着きました。そこからは鉄道で共産圏を抜けやっと自由圏のオーストリアのウィーンに辿り着いた時には本当にホッとしました。ウィーンでは情報収集も兼ねてユースホステルに泊まり、そこで得た情報でお隣りのドイツのミュンヘンで極寒の中アルバイトをしてお金を貯めました。 当時ドイツで1か月働くと他の国では3か月ほど生活出来ましたのでマドリード大学の夏期講習が始まる迄その働いたお金でギリシャやイタリア方面の国々をヒッチハイクとテント生活の貧乏旅行をしました。この旅行は忘れられない青春の思い出です。 マドリード大学では学生寮で三食付きの贅沢な勉強でしたので今でもスペインの寛大な政府に大変感謝しています。夏期講習も終わり日本への帰国となりましたが、片道切符でスペインに行きましたので帰りは一番安い陸路でスペインから中東を経由インドまで、そこから船で日本という計画を立てました。スペインから中東まではバスやトラックのヒッチハイクで向かいましたがイランの砂漠では死ぬ思いの体験もしました。今の世界情勢を考えると信じられないことをしたなと自分でも思ってます(笑) 写真左:ドイツでヒッチハイク 中央:ピレネー越えマドリードへ 右:イランの砂漠で ―国境の出入りがそれだけ自由だったことに驚きます。その後日本にご帰国され、大学に復学されました。 鴻巣氏:日本に帰国してからもまた同じように世界をもっと知りたいという気持ちは募る一方。一緒に行った旧友はジャーナリストを目指していて、「スペインには行った。それでもまだ地球の半分しか見ていない。次は中南米のスペイン語圏を観なきゃいけないよね」と語り合いました。その後1962年にナホトカからシベリア鉄道に同じように乗り、今度は北欧から南下して中央ヨーロッパに入りました。先に出発していた仲間とフランスのマルセイユで合流し、ブラジルに行く船を探し回りました。この時もマルセイユで地元の人に聞いたりするなどしてブラジル行きの安い貨客船を探しましたが、現地に実際に行って情報収集することが一番確かな方法であることは今でも変わらないと思っています。 大西洋を航行中の船中でケネディ大統領の暗殺を知りましたがアメリカでさえ安全は保障されない事をしりました。そしてブラジルに入りました。当初はブラジルからアルゼンチン→チリ→ペルー→ボリビア→ベネズエラ→パナマを経由しメキシコに入りアメリカ・ロサンゼルスから帰国と考えていたのですが、当時の中南米の治安の状況がよくないことと、ペルーに入った時が大学に復学しなくてはならい時期になり、結局ペルーのリマから飛行機でニューヨーク、ハワイを経由して日本に戻りました。 この航空券はリマの日系旅行社の大変親切な社長さんが保証人になって下さり、日本払いの月賦で売って頂きました。本当に世界中の沢山の人達に助けられて旅行が出来たのだと実感し感謝しています。 メキシコでメキシコ線実現へ! ―その時はメキシコまではいけなかった鴻巣さんですが、その後メキシコに出会うまでどのような経緯があったのでしょうか。 鴻巣氏:日本に帰国後も相変わらず、苦学のアルバイト学生でしたが、日本航空(JAL)のメキシコ支店に既に赴任していた同窓の先輩からお声がかかったのがきっかけです。当時JALはメキシコから日本へ直行便を出す計画を立てており、その実現のための即戦力要員としてリクルートされました。メキシコは行きたくても行けなかった一番の国でしたので即メキシコ行を決断しました。そして私がメキシコ支店に就職してから5年後にJALは日本との直行便を出すことが出来ました。お蔭さまで大型バスが空港に4台も迎える程のお客さんが来る盛況で支店は大わらわになりました。 そこで直行便が就航し成果は出ましたが、今度は遠路はるばる日本から来られた観光客に如何にメキシコを楽しんで頂くかという次の課題がありました。 直行便の実現と言う私のお役目も終わった事でもあり私は1972年にJALを退職し、1973年よりメキシコ観光に入社しました。メキシコ観光は1968年メキシコオリンピックの年にJALの意向で設立された日系初の旅行会社です。日本流のおもてなしとサービスで日本人観光客の受け入れ業務だけではなく名実ともにIATAの日系旅行社ナンバーワンを目指しました。 ―その当時は日本人観光客の方にはどのような観光地が人気でしたか コスモスツアーでの一枚 鴻巣氏:アカプルコとテイオティワカンのピラミッドです。当時はまだカンクンやプエルト・バジャルタ、ロス・カボスなどは開発されていませんでしたので観光のメッカはシテイーとアカプルコでした。シテイーでは皆さんメキシコが想像以上に近代的で大都市であるのに大変驚かれました。他にベージャス・アルテスの民族舞踊や本場スペインからのフラメンコショーを楽しんで頂きました。当時はペソが大変強く世界中から有名なアーティストが出稼ぎに来ていた様な時代です。 アカプルコではケブラダの飛び込みショーがハイライトでした。 日本とメキシコ、両国が観光のプロモーションも始め、メキシコ政府も観光収入を更に増やしたい時代でした。官民一体になってメキシコ旅行のプロモーションをしていました。その他にも駐在員の方々にメキシコを楽しんで頂こうとバハ・カリフォルニアにクジラを見に行くツアーや塩田、ワイナリーツアー、海外のツアーではパナマ運河ツアー等々作りました。 その後増加した日本人旅行者の影響もあり、1987年にホテル日航(現ハイアットリージェンシー)がメキシコシティに開業しましたので、より快適な旅行を提供できるようになりました。メキシコ観光は100年の計を目指した会社で社内に55歳定年制を設定していましたので私は1995年にメキシコ観光社長を定年退職しました。その後1997年から2005年まで進出企業のお世話をするメキシコ日本商工会議所で事務局長を努めました。 会議所時代の思い出の一つにNHKのど自慢大会のメキシコ誘致を大使館、会議所、日墨協会、日墨学院の皆さんと一緒に実現出来た思い出があります。因みにのど自慢海外公演はメキシコが最後でした。 2006年から2019年までは家庭の事情でメキシコと日本を行ったり来たりの生活をしていましたが、2019年からは完全に日本に本帰国しています。 NHKのど自慢2005年 美川憲一さん長山洋子さんと 海外から海外に行くハードルは高くない! ―まさに鴻巣さんのメキシコ生活は、メキシコの旅行業と共にといったところですね。 鴻巣氏:そうかもしれませんね。 メキシコでの仕事はJALから始まりましたがメキシコ観光、会議所の仕事も、どれも周りの皆さんのお力添えが有って務まったのです。それと大げさかも知れませんが、若い頃の世界旅行で世界中の人から助けを頂きましたから、そのチョッピリの恩返しの気持ちが心の中に有ったのかもしれませんね。 今は様々な観光地に個人でも気軽に行ける時代になりました。メキシコにいる駐在員の方にはメキシコにいる間に中南米やヨーロッパにも是非足を運んでほしいです。日本から海外に行くハードルは高くても、海外から海外に行くハードルは高くないと思っています。それに、メキシコからフランスのパリまで飛行機で約8~10時間で行ける時代。私がシベリア鉄道を経由してヨーロッパに行った頃と比べたら、時間とお金に余裕さえあればどんどん行って欲しいですね。また、メキシコの歴史を知ってほしいですね。人間でもそうですが、相手のこれまで辿ってきた歴史的背景を知らないと愛せない。知れば知るほど相手を理解していくことが重要です。 ストレスをためず、人生を楽しむ方法を見つけてください! ―駐在員の方へのアドバイスもいただいたところで、鴻巣さんが思う、メキシコ生活で生き抜いていくための秘訣を教えてください。 1.4つの「あ」を意識して 鴻巣氏:4つの「あ」です。「慌てず、焦らず、諦めず、当てにせず」の頭文字をとって4つの「あ」。この4つはメキシコに限らず、どこの世界でも通用すると思うスキルですね。メキシコでは特に思うように物事が進まずついイライラしがちになったり、焦って他の手段をとろうとしたり、「もう無理だ」と諦めたりしがちになる場面を読者の方も何度も経験したと思いますが、この4つの「あ」を頭の片隅に入れておいてください。そうするとリラックスできて、生き急ぐこともせず、失敗や思わぬトラブルも回避しやすくなるのではと思います。 2.日本食はいつでも食べられるので、メキシコにいるならメキシコ料理を堪能して MEXITOWNの他の方のインタビューでもありましたが、メキシコの食文化の豊かさを是非知っていただきたいです。メキシコ料理は2010年にユネスコの無形文化遺産としても登録されています。先住民が食べてきた料理とヨーロッパの食文化が融合しているような気がします。駐在員の方は日本に帰国した時にいくらでも日本食は食べることができます。メキシコにいるからこそ地元の料理を堪能してください。私はメキシコに行った時は必ずステーキを食べています。日本だと350~400gのステーキはとても高いですが、メキシコだとお手軽にいただけますね。食は楽しい仲間と楽しく・時間をかけてゆっくり食べる ー日本では経験できない貴重な時間です。 3.健康管理をしっかり。ストレスは身体によくない また当たり前かもしれませんが、健康管理はしっかりとしてください。毎日の仕事に追われている方が多く、特にメキシコが好きで来たのではない方にとっては相当ストレスになりますよね。でも、それでは良い仕事も出来ません。ストレスほど身体によくなく、バランスを崩すものはありません。私がメキシコ観光時代アテンドしていた観光客のお客様の中にもツアー中に食あたりを起こした方を何人も見てきました。衛生環境が悪いところでもないのに腹痛になった方の多くはツアーのハードスケジュールや慣れない土地でのストレスが原因ではないかと私は見ています。それくらいストレスは健康に影響を与えます。 若い方にはなかなか考えるのが難しいかもしれませんが、人間いつかは死ぬ。今クヨクヨしていてもだめなんです。人生を自分なりに楽しく生きる方法が必ずあるはず。毎日の仕事に没頭するだけではなく、沢山のお友達と交流を深めて楽しい生き方を見つけてください。 ―当たり前のようなことですが、改めて心に留めようと思いました。ありがとうございました! 経歴: 鴻巣勝明 Katsuaki Konosu 1940年神奈川県生まれ。上智大学外国語学部西語科出身、1966年から1972年に日本航空メキシコ支店、1973年から1995年メキシコ観光を経て、1997年から2005年メキシコ日本商工会議所事務局長。2006年から2019年まではメキシコと日本の二重生活を送るが、2019年からは完全に日本に本帰国。現在は地元横浜でゆっくりと過ごす。 編集後記 メキシコの観光業に長年携わっていた鴻巣氏。小・中学校はボーイスカウト、高校時代は山岳部に所属していたので世界旅行のようなハードな旅行には耐えることができたのだと思いますと話すその様子は、今からでもカバン1つで世界の色々な場所に旅行が出来そうなご様子でした。スペインから中東を経てインド、日本へ陸路と海路で帰国という今では想像のつかない・経験ができないことをされた話はどれも興味深く、インタビュー時間の2時間半はあっという間に過ぎていきました。 メキシコにいるとスローに進む物事に対して焦り、慌て、諦め、更に最終的には誰かのせいにしたりして最終的にはいい結果が導き出せないことは、編集部も経験があります。そんな中で鴻巣さんが話した4つの「あ」や、健康管理は当たり前のようなことでも日々の忙しさに追われているとつい忘れてしまいがちです。こうした助言一つ一つをノートに留めておいて常に読み返したくなりました。

  • 【イラプアトお知らせ】Restaurant Ken 憲 9月5週目 日替わりメニューの御案内

    イラプアトのRestaurant Kenより、9月5週目(9月26日~9月30日)の日替わりメニューのお知らせです。 塩鯖弁当 $130 継続します。 日替わりメニューについて 9/26 月曜日  豚バラとパプリカの味噌炒め Butabara y pimientos en salsa miso 9/27  火曜日  鶏南蛮蕎麦 Chicken Namban soba 9/28 水曜日  ソースとんかつ Sauce tonkatsu 9/29 木曜日  ハヤシライス Hayashi rice 9/30 金曜日  鮭フライタルタルソース Salmon empanizado con salsa tartaru ※お弁当メニューはこちらからダウンロードできます↓ お弁当のご注文はこちらのメールにて、 当日9時までに頂きますようにお願いします。 尚、KEN弁当に関しましては予算や内容などの確認もありますので、 3日前までにご注文頂きますようお願いします。 宜しくお願い致します。 Restaurant Ken のインタビュー記事はこちら https://www.mexi-town.com/post/restaurant_ken 店舗情報 Restaurant Ken 憲 住所:Irapuato - Silao 250, 36810 Lo de Juárez, Gto. MAP 電話番号:462 117 4908 営業時間:月~土: 12–3PM 定休日:日曜日 ※夜の時間帯は4名以上の予約制となります。

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